私は、ラトビア大学で日本語を教えていた。日本の大学と違いラトビア大学では入学した学生の半数以上が退学をしていた。
ある日、鬱病を患い、療養のため退学を考えている学生と彼の進路の話をした。私は彼が少しずつでも社会復帰することを将来的には考えた方がいいと思い、その学生に「調子がよくなってきたらスーパーかどこかで少しアルバイトをしたらどうか。その後で、将来何をするか考えても遅くないだろう。アルバイトをする中で何か目標が見つかるかもしれないし」と言った。その学生からの答えは私が予想していたものとは全く違った。「先生、スーパーの店員のような仕事は私がする仕事ではありません。それは社会の底辺の人の仕事です」。その学生と私の間で議論が始まった。彼が言った「社会の底辺の仕事」という言葉が許せなかった。それは、日本のスーパーのおばちゃんを知っているからである。
 日本の大学で学んでいたとき、友人の一人が4年間同じスーパーで働いていた。彼の部署は地下の食品売り場で、彼からスーパーで働くおばちゃん達の話をよく聞いた。彼によれば、スーパーのおばちゃん達はたいへんプロ意識が強く、例えば揚げ物担当のおばちゃんは絶対に他の人に揚げ物をさせない。彼女は揚げ物にかけては誰にも引けを取らないと自負しているからだ。揚げ物担当のおばちゃんだけでなく、その他の担当のおばちゃんも自分の仕事に誇りを持ち、自分がその持ち場では一番と自負している。自分が休んだら売り場が困ると思い簡単には休まない。
 日本のスーパーではみんな一生懸命働いている。店員はみんな笑顔である。商品の場所がわからなければ、店員はその商品が売っている売り場まで連れて行ってくれる。別のテナントで扱っている商品なら、そのテナントに内線で問い合わせてくれることさえある。レジに長い列ができていれば、今している仕事が切り上げられるものなら、その仕事を切り上げてレジにつき、客をできるだけ待たせないようにする。これら全てが日本では当たり前のことである。
 ところで、ヨーロッパのスーパーの店員は、自分で自分の地位を低くしているのではと感じる。英国で商品のトマトを投げている店員を見たが、誰も文句を言わず、見てみぬ振りだった。「スーパーで仕事をするような人に常識は期待してはいけないし、できるだけ関わらない方がいい」という前提があるのではないだろうか。つまり、ヨーロッパでは職業にピラミッド状の階層があり、下の層の仕事に就く人には給与も低いが、その人の仕事に対する期待も低いのかもしれない。スーパーの仕事は下層の仕事と見なされ、どんなに一生懸命働いても認められることがまずない。スーパーの店員達は「こんな仕事・・・」と思い一生懸命働かない。誰も一生懸命働かないから社会も「スーパーの店員」と見下してみる。このサイクルは、どんどんネガティブな方へ転がっていく。だから、前述のラトビアの学生も「最下層の仕事」と言ったのではないだろうか。
 ヨーロッパでは自分の頭で考えて働く職種と自分の頭で考えることを期待されない職種という二つの大きな区別があるように感じる。それはヨーロッパの大きな問題ではないだろうか。
一方、日本は職種に関わらず目的を持って仕事に取り組むことが期待され、労働者の目的意識が高いように感じる。これは、日本のサービスが世界一と言われる一因ではないか。そのような日本人の代表として、ここではスーパーのおばちゃんについて述べた。スーパーのおばちゃんが日本だけでなく、世界にあふれれば、世界のサービスのレベルは飛躍的に上がるのではないだろうか。ヨーロッパで暮らして悲しく感じるのは被雇用者が自分の給与を見て勝手に「この給与なら、この程度しか仕事をしない。」と自分の仕事に手を抜くことである。しかし、手を抜いて8時間働いても一生懸命8時間働いても8時間は8時間。何の違いがあるのだろうか。まず、何を根拠に「この給与ならこの程度」と客観的な線を引けるのであろうか。
日本のスーパーのおばちゃんたちのように笑顔で一生懸命働けば、客に呆れられたり、悪態をつかれることも少ない。客にも見下されないだろう。また、自分の仕事に誇りを持っているので、充実した日々を送れる。ヨーロッパのスーパーの店員も日本のスーパーのおばちゃんのように働いた方が精神衛生上もいいのではないだろうか。
ところで、先ほどヨーロッパではスーパーの店員の仕事は最下層の仕事と考えられていると書いたが、日本ではどうだろう。ヨーロッパ同様、給与はよくない。ただし、「社会の最下層」と思われているだろうか。もし、ある客が「スーパーの店員は最下層の仕事」という振る舞いを店員にするとしよう。周りの人はその客に後ろ指を指すことだろう。
日本では、職種によるピラミッド構造がヨーロッパほどないように感じる。それにはいろいろな要因があるだろうが、職種を問わず自分の仕事に誇りを持ち、一生懸命働く労働者が多いからではないだろうか。
しかし、ヨーロッパのスーパーの店員全員が怠惰で、日本のスーパーのおばちゃん全員が働き者と言うつもりはない。日本にも頭にくるような態度のスーパーのおばちゃんがいるだろうし、ヨーロッパにもいつも笑顔で親切な店員もいるだろう。実際、ラトビアではハム売り場にそういう店員さんがいたし、ハンガリーでも親切なロマの店員さんに会ったことがある。ヨーロッパの市場に目を移せば、気さくな店員に出くわすことも少なくない。
ただ、ヨーロッパでは、スーパーの店員が適当に働いてもそれが当たり前と思われ、日本ではそれが当たり前ではなく、批判の対象になることに大きな違いがある。批判をされるということは、それだけ大きな期待をかけられていることでもある。日本のスーパーのおばちゃんが大きな期待をかけられているのはその期待を店長が押し付けているからはない。おばちゃん達の働き振りからおばちゃん達が期待されるようになり、おばちゃん達がその期待に応えているのではないだろうか。つまり、ボトムアップのサービス向上である。これが日本のサービスは世界一と言われる要因のひとつであると考えられる。そこで、最後に一言言いたい。「がんばれ、スーパーのおばちゃん!」