震災から2カ月も経たないうちに、またぞろ政府のシャッポ切りの動きが始まった。いったい日本の政治はどうなっているのだろうか。首相が交代したくらいで、事が劇的に変化するとは誰も本気で思っていない。ところが、この国では政治家の態度が煮え切らないと映ると、すぐに交代の大合唱が起こる。国民は三文政治劇で憂さを晴らし、政治家はお山の大将ごっこをやっている。
 確かに、日本の政治家は魅力に欠ける。人気がある現代の政治家に共通しているのは、主張の当否と関係なく、主張の明快さだ。大阪の橋下知事や東京の石原知事の政策がそれほど当を得ているとは思えないが、物言いがはっきりしている。政治家の優柔不断にストレスを感じている人々にとって、この明快さは清涼剤になる。小泉人気の秘密はここにある。その主張がとても国益に合致していたとは思わないが、単純明快な主張とそれを貫く姿勢に圧倒されたのだ。この点で例外なのは、小沢一郎。喋りは下手で、対外的なコミュニケーション能力は国会議員の中でも最低の部類に属するだろう。ところが、もったいぶって表に出ない演出が「豪腕」の幻想イメージを生み、首相の資質が問題になる度に彼の名前が出てくる。これほどの買いかぶりはないのではないか。彼が表の仕事で何か達成したことがあるだろうか。せっかく政権をとったのに、幹事長としてやったことは自分の手下を引き連れて大規模中国訪問団を実現したことぐらいだ。マニフェストを守れという以外に、具体的な政策展開ができない人だ。
 このように、外に発信する主張や姿勢が明快であることが、政治家の評価を高める。その点で、今の政治家のほとんどが落第である。外に発信する言葉には、感情と力がこもっていなければならない。日常会話と同じトーンの喋りは、何のインパクトも与えない。菅首相の語りの最大の欠陥はこれだ。生きた人間のエネルギーの発出が感じられない。感情がこもっていない語りでインパクトを与えることなどできない。これはカラオケと同じ。日常会話と同じトーンで歌ったのでは、歌唱にならない。たんにトーンを上げるだけでも駄目だ。感情のヴァリエーションがなくて、ただ声を張り上げるだけなら、それは無味乾燥な街頭演説の域を超えない。
 この10年ほど、どれだけの数の人が首相に就任したかすぐには思い出せないほどだ。退陣間際に誰もが批判にたじろぎ弱気になり、心神耗弱に陥った。その典型例が安倍晋三だったが、菅首相もそれによく似た症状を見せている。
 人は自信がなくなると、歩き方にも変化が現れる。批判が強まってから、菅首相の歩幅が小さくなって、ちょこちょこ歩くようになった。この混乱期に首相を代えるなど、国際風評をますます悪くするだけだ。一国の首相なら、堂々と歩けばよい。誰がやってもたいして変わらないのだから、開き直って堂々とやったらどうか。私心がないところをはっきりさせ、やれるところまでやって後に繋ぐ。不信任を出される前にその程度の啖呵が切れなかったところに、菅直人の人としての限界が見える。
 それにしても、官房長官や東電、原子力保安院の会見も、もっと工夫したらどうかと思う。まず、言葉遣いが駄目だ。枝野長官の言葉は、典型的な政治家の語法だ。「確認をいたします」(「確認をさせていただいているところであります」)、「善処をいたします」、「配慮をいたします」等々、言葉を言い切れない。何故、「確認します」、「善処します」、「配慮します」と言えないのか。「いただいている」、「いただいているところであります」と丁寧語を使っているが、言い切ることができない自信のなさを、冗長に言葉を継ぎ足すことで補っているという印象なのだ。この慇懃無礼で無内容なコミュニケーションに、革命的な明快さをもたらしたのが、「小泉革命」なのだ。しかし、国会議員だけでなく、広報を担当する多くの人も、そのことが分かっていないようだ。
 内閣官房参与として、首相のアドヴァイザーに就任していた小佐古教授の辞任会見も奇妙だった。必要以上にウェットになりすぎていた。もし自分の主張が絶対に正しいと思うなら、具体的な事例や典拠を明示して主張するべきなのに、「私のヒューマニズムから許せない」と涙を拭くのはとても科学者の態度だと思われない。
 その後の枝野長官の「暴露」にもあったように、いろいろな場面で自らの意見が取り入れなかったことが理由なのだろう。原子力を専門とする教授であっても、すべてのことに通じているわけではない。放射線の人体への影響を研究する専門家は非常に限られているし、人体実験ができる性格の研究でもないので、その筋の専門家でも正確なところは分からない。だから、原子力の専門家でありながら、「ヒューマニズム」という一般人の表現が出てくる。大学だけで仕事をしている研究者は専門が違う人や官僚・政治家と意見を摺り合わせて結論をだしていくという作業に慣れていない。だから自分の意見に耳を傾けてもらえないと、拗(す)ねてしまう。大学から行政の場に研究者を招聘する時には、その人の適応能力を見極めないと、逆効果になる。
 4月半ばの復興会議に出席した東北3県の知事の対応も興味深かった。村井宮城県知事は復興と防災の観点から新しい街づくりの具体的提案をおこなったのにたいし、増達岩手県知事は復興資金を増税で賄ってはならないと、どこかの国会議員の言葉をオウム返しするだけで、具体的提案はゼロ。佐藤福島県知事にいたっては、原発問題を抱えているとはいえ、賠償を叫ぶだけで具体的な提案はなかった。原発を抱える地方自治体は、原発交付金の使い方を再考すべきだ。交付金はありがたく頂戴し、リスクがゼロで当然という思考は間違っている。リスクがあるからこそ、巨額の交付金が出ているはずだ。その何割かを留保し、リスクを担保するのが為政者の仕事ではないだろうか。3知事の言動からも、為政者としての能力が垣間見えてくる。
(もりた・つねお)