1枚の絵葉書がある。岡鹿之助の「雪の発電所」である。長野県山ノ内町・志賀高原の麓、十二沢にある水力発電所を描いたもので、筆者が大好きな絵画の一枚である。西洋を感じさせる発電所の建物が信州の自然とうまく調和し、信州の暗く長い冬を感じさせる。
平成を迎えた1989年に朝日新聞社によって企画された「昭和の洋画百選展」でナンバーワンに選らばれ、1981年には「近代美術シリーズ第九集」の切手にもデザインされた。作品が発表された1956年の第2回現代日本美術展では最優秀賞を受賞し、翌年には毎日美術賞の対象にもなった名画である。
 かねてからこの作品の舞台になった平穏(ヒラオ)第一発電所を再度訪ねてみたいと思っていた。
2011年5月、日本に一時帰国した時それが実現した。帰国した際、母校のあった須坂市の高等学校の同級生が筆者を囲んでお酒を飲む会を催してくれた。15人ほど集まってくれ、高等学校の思い出やハンガリー生活の話で盛り上がるなか、同級生の一人もこの絵のファンだということから一緒に発電所を訪ねようということになった。
 友人の自宅のある須坂市から山ノ内町へは車で45分くらいの距離。現在の発電所は岡鹿之助の「雪の発電所」のイメージとは程遠いもの。山ノ内町湯田中から志賀高原に通じる自動車道路を5kmほどで発電所入り口にたどり着けるが、発電所の前には杉の木が生い茂り発電所の建屋、水圧鉄管を一望できる状態ではない。「雪の発電所」に描かれている6個の建屋の窓は現存する建屋の窓と同じ数であることを確かめ何となく満足できた。
 この絵が描かれたのは1956年、昭和31年。筆者が高校1年生の時。当時、自動車道路は別のルートを通っており、自動車道路から発電所には歩道で繋がっており、「雪の発電所」と同じような景観だった。開発の名の下、環境も大きく変わってしまった。せめて名画のモデルになった景観ぐらい残せなかったのだろうか。

 この絵は筆者の中学校時代の学校行事を鮮明に思い出させてくれる。この発電所の右斜め後方に筆者が通っていた平穏中学校の学校林があって、中学校1、2年の春(1952年~53年)は授業の一環として植林作業があった。教室で授業を受けているよりはるかに楽しい行事だった。
 作業当日は中学校に集合して約5km の道のりを徒歩で現場に向かった。大仏さん(大悲殿・平和観音)の近くの中学校から安代橋を渡り、沓野の集落を通りぬけて、沓野神社、上林温泉分岐点を過ぎて約1kmでようやく発電所から志賀高原に通じる旧道へと辿りつく。
 旧道は石だらけ歩き難い道、現在のように舗装が行き届いている時代からは遠い昔の話になった。旧道は「なめっつぁか」と呼ばれ、杉林の中、途中に「すずめのお宿」という茶店があった。裏の小川の水は冷たく、長い、緩やかな上りの道を歩いてきた後は何よりのご馳走だった。50年も前、一般の家に車もない時代だから環境汚染もなく、天然に流れる小川の水が飲めたのだ。
 学校林は十二沢から坊平に掛けての急斜面だった。スコップと鍬で穴を堀り、杉の苗木を植え込む作業だった。担任の先生が「皆さんの植える杉は30年後に伐採して新しい校舎の材料になります。心を込めて植えましょう」と挨拶をしたのが思い出される。この杉は校舎の立替えに使われたのだろうか。多分使われなかったことだろう。平穏町が町村合併で山ノ内町になり、町に4つあった中学校は統合されて山ノ内中学校になり、校舎は湯田中駅の近くに鉄筋コンクリートで新築されたからだ。
 お昼の休憩時にはあちこちに群生していた「かたくり」の根を掘った記憶がある。自然破壊になるから、現在では許されることではないが、この時代には問題なかった。焼いて食べるとデンプンの香りと舌触りが何とも言えなかった。
 植林作業の後は上林に住む友人の家に寄った。父親が長野電鉄系のホテルの支配人で同系列の上林温泉ホテルの温泉プールで泳がせて貰った。当時中学校にはプールがなく水泳といえば近くの夜間瀬川、角間川の急流をせき止めた水浴び場しかなかった。25mの温泉プールは大変な魅力だった。水泳パンツを持っている友人はほとんどなく、手ぬぐいと紐で俄かつくりの水着をつけて泳いだ。
 この絵の中央に描かれている水圧鉄管は水源地の琵琶池まで通じている。志賀高原の丸池や琵琶池に釣りや遊びに行く時は鉄管に沿った急な道や、鉄管の上をよく歩いたものだ。現在は立ち入り禁止になっているようだが、これも楽しい思い出の一つ。家が貧しくバス代はもらえないので、遊ぶにはひたすら歩くしか方法がなかったのだ。

(こまつ・ひろふみ)