去る10月23日、関恒義一橋大学名誉教授(享年89歳)が他界された。還暦を過ぎた頃に気胸を患い、体調を崩しながら生活を送られていた。といっても、大学院門下生は長らく先生と連絡が取れないまま、たまに聞く風の便りで、ご健在を知るのみであった。
 大学院門下生が一堂に会し、教科書『現代の経済学(上)・(下)』(青木書店、1978年)を共同執筆し、還暦記念にハンガリーの経済史家マーチャーシュ・アンタル『近代経済学の歴史(History of Modern non-Marxian Economics)』(大月書店、1984年)を翻訳出版したのが、門下生の共同事業の最後となった。その後、1988年に関教授は一橋大学を退官され、田舎で静養されたこともあって、門下生との距離が次第に遠くなった。学部卒業生との付き合いは息長く続いていたが、大学院門下生との付き合いは次第に絶えてしまった。私が1988年にハンガリーへ赴任し、そのまま居ついてしまったこともあって、門下生を束ねる人がいなかった。
 関恒義の主要な仕事は現代経済学批判であったが、その流れを受け継ぐ門下生は、私を除いていない。門下生を代表する資格もないが、私が語らなければ、その業績が顧みられることもない。長年の不義理を償うべく、ここに追悼の意を込めて、関恒義を彼の世に送り出したい。

 関恒義は1924年に長野県で生まれ、16歳で東京の中学校に転校し、卒業後に東京商科大学(現、一橋大学)予科に入学し、本科進学とともに中山伊知郎ゼミに所属した。当時の中山ゼミには、戦後の一橋経済学を担う俊英たちが学んでいた。中山ゼミは杉本栄一ゼミと並んで、東京商科大学の人気ゼミナールであった。
 関恒義は学徒出陣で終戦までの1年間、国内の基地に配属された。若い幹部候補生が荒れた下士官たちを束ねるのは容易でなく、一緒に大酒を飲みながら、なんとか乗り切った話は何度か聞いた。酒とたばこはその時から身についた習慣になった。それが気胸を患う遠因にもなった。戦時環境では数理経済学を勉強するしかなく、中山ゼミを選んだ理由を語られた。
 終戦後、中山教授の助手として労使交渉の裏方の仕事をやりながら、数学の本格的な勉強のために、1948年から東大理学部弥永昌吉教授のゼミナールの研究生となり、数学を学ぶことになった。当時の弥永ゼミには、後に日本の数理経済学の草分け的存在になった二階堂副包や立教大学の数学教授になった赤摂也がおり、その縁で赤氏の妹君を娶ることになった。このゼミナールで、関恒義は二階堂氏らと一緒に、ハンガリー人数学者ノイマンが着想した経済均衡モデルを研究した。二階堂氏はその後、アメリカに渡り、一般均衡モデルの別証明を与えて、国際的に知られることになった。二階堂教授の『現代経済学の数学的手法-位相数学による分析入門』(岩波書店、1960年)は長らく、この分野を専攻する者のバイブル的書物となった。これはノイマンが数ページの論文にまとめたモデルを、一から解説し理解するための本だと言って良い。

 関先生は一橋大学教養課程で「数学」を、経済学部で特殊講義(社会主義経済学)を担当されたが、次第に問題関心が数理経済学から離れ、経済学批判へと向かうことになった。非マルクス経済学から出発して、マルクス的手法を使った現代経済学批判を展開するという非常に稀な存在となった。1950年代から60年代にかけて、日本の経済学界ではいわゆる近代経済学とマルクス経済学との激しい鍔迫り合いが展開された。マルクス主義の伝統の強い日本の経済学部で、近代経済学が次第に勢いを増していく時代である。1956年から1957年に東洋経済新報社から出版された『講座:近代経済学批判』は、当時のマルクス主義理論家を総動員した近代経済学批判である。
 非マルクス経済学とマルクス経済学を内在的に比較検討する杉本栄一教授のゼミナールからも、伊東光晴や宮崎義一など非常にユニークな人材が多く育っていった。関恒義は中山伊知郎門下から出発し、杉本栄一が対象としていた問題に接近し、近代経済学の内在的批判を超えるイデオロギー的批判を展開することになった。関恒義の登場は、近代経済学から転身した気鋭の学者の批判として注目された。1960年の安保闘争で社会が騒然としていた時期である。関恒義は杉本栄一の内在的批判を超えて、近代経済学のイデオロギー的性格を暴くことが近代経済学批判の方向だと主張し、杉本門下の末永隆甫教授と論争された。今ではこの種の論争がなくなってしまい、何とも物足りないが、1960年前後は血気盛んな論争がたたかわされた。

 関恒義の近代経済学批判の集大成が『現代資本主義と経済理論』(新評論、1968年)に結実した。なかでもサムエルソン経済学を真っ向から批判する切れ味に、興奮したのを覚えている。当時、私が在学した国際基督教大学では、サムエルソンの原書(第6版)をもとに、アメリカ人経済学者が講義していた。都留重人先生の監修でサムエルソン『経済学』の日本語訳が出版されたのが1966年で、一橋大学都留重人門下生による共同作業であった。東大駒場キャンパスでは、内田忠夫教授がこれを使った授業を開始され、玉野井芳郎教授も『マルクス経済学と近代経済学』(日本経済新聞社、1966年)を使って講義されていた。いわば1960年代後半はマルクス経済学と近代経済学のせめぎ合いの様相を呈していた。
 私は国際基督教大学に非常勤で講義されていた杉本栄一門下の種瀬茂一橋大学教授に卒論指導をお願いし、何度か国立キャンパスの官舎をお邪魔した。種瀬先生は学長在職中の1986年に、若くして心筋梗塞で亡くなられた。種瀬教授は杉本門下の秀才、関教授は中山門下の異端児で、関先生が1歳年上だった。
 国際基督教大学の学生でありながら、小平の一橋教養課程で関先生の講義を聞き、国際基督教大学がロックアウトになった時には、東大駒場キャンパスへ玉野井先生や堀尾輝久先生の講義を聴きに行った。後に、堀尾先生とは日本書籍の中学「公民」の教科書編集で一緒になり、また玉野井先生のお嬢さんとは、法政大学社会学部パソコン実習に非常勤講師で参加していただき、一緒に教科書を編集した。不思議なめぐり合わせである。

 1960年代半ばは中国の紅衛兵運動が盛んで、菊池昌典先生は駒場の講義で、「造反有理」と板書して春の授業を始めたのを覚えている。スターリン主義批判の大論陣を張ったことで知られており、中国の動きに感情を動かされていたようだった。ヴェトナム戦争が拡大し、ソ連圏では経済改革が叫ばれ、利潤導入が資本主義の復活へ進むのかが議論された時期である。この時も大学が長期間ロックアウトになり、塀に囲まれたキャンパスで、国際基督教大学出身で当時スタンフォード大学助手だった雨宮健氏から、「一般均衡を証明する不動点定理」の講義を受けた。1969年のことである。その後、雨宮氏はスタンフォード大学教授となり、日本の数理経済学者でもっとも国際的に知られる学者(論文引用数第1位)となった。
 余談になるが、1988年にハンガリーに赴任する前、菊池先生から東大駒場で「コルナイ経済学」の講義をして欲しいという依頼を受け、半期の講義をおこなって慌ただしく日本を旅立った。その菊池先生もすでに他界された。

 今から振り返れば、1960年代から1970年代は経済学の百家争鳴時代であった。ハンガリーにはノイマンの数理経済学を継承するブローディ・アンドラーシュを中心とする数理経済学派と、1人で正統派経済学(一般均衡学派)に立ち向かったコルナイ・ヤーノシュがいた。コルナイ『反均衡の経済学』(日本経済新聞社、1975年)の原書出版は1971年である。主流派経済学への真正面からの批判は、大学院生だったわれわれの知的関心を刺激したのを覚えている。
 こういう歴史環境のなかで、関先生は現代経済学のイデオロギー批判を展開され、この分野で貴重な存在となった。関先生は近代経済学を厳しく批判しながら、他方で経済学における数学利用には非常に寛容であった。数理経済学から出発したバックグラウンドを垣間見ることができた。大阪大学から二階堂教授を、津田塾大学から位相数学・代数学の松坂和夫教授を一橋大経済学部へ招聘するのにも尽力された。関先生はとくにノイマンを受け継ぐ数理経済学の方向には肯定的な評価を与えていた。そのこともあって、経済学への数学利用を無意味と考える経済統計研究会の理論家とはギクシャクした関係にあった。近代経済学にたいするイデオロギー的批判で関先生と同じ方向を目指していた山田耕之介(立教大学教授)も、経済統計研究会系に属する学者で、数学利用に否定的だった。私が法政大学で教鞭をとって間もなく、山田先生から立教大学への誘いを受けた。法政飯田橋キャンパスの荒れた状態に失望し移籍も考えたが、職について間もない時期であり、法政への招聘を仲介された田沼肇先生からせめて5年は在職してくれと懇願され、立教への移籍を諦め、ハンガリー留学の道を選択した。なお、山田先生は立教大学退職後、若き日に留学したポーランドへ移住された。ブダペストから何度かコンタクトを取ろうとしたが、連絡が取れないまま、ワルシャワで他界された。

 関先生は大学院生の指導でも数学利用を積極的に推奨された。門下生は産業連関論分析などを研究しても、近代経済学批判の研究に向かうことはなかった。その意味で、近代経済学のイデオロギー批判は、関恒義一代限りの仕事であった。私も大学付属の経済研究所で国民経済計算論を研究されていた倉林義正教授に教えを請い、それが縁で1978年にハンガリーに留学することになった。関先生と倉林先生はほぼ同じ時期に中山ゼミで学ばれた仲で、関先生は国民経済計算論の研究を後押しされた。倉林先生は1980年代に国連統計委員会(UN Statistical Commission)議長に就任され、公人としてハンガリー中央統計局を訪問されたこともある。倉林ゼミに属していたわけではなかったが、ブダペスト訪問時にはクラシック通である倉林先生と常に音楽三昧のプログラムを組んでご一緒した。倉林先生は法政大学田沼肇教授とは小学校の同級生という奇遇だった。
 関先生の近代経済学批判は非常に厳しいものであったが、一橋大学のリベラルな風土を大切にされていた。我々の大学院時代の一橋大学には実に多彩な経済学者が経済学部と経済研究所に集まっており、東大経済学部をはるかに凌ぐ人材と問題意識に富んでいた。私が大学院へ入学した時にはすでに退官されていたが、産業・景気循環論の日本の草分け的存在である篠原三代平先生もまた中山伊知郎門下で関先生の先輩にあたり、私と同じ富山県高岡市の出身である。社会主義崩壊に関心を抱いておられ、財団法人統計研究会会長として何度も研究会に呼んでいただいた。翻訳書や著書を贈る度に、直筆のお手紙を日本からいただいたが、2012年に他界された。

 ヴェトナム戦争における社会主義勢力の勝利によって、当時すでに顕在化していた社会主義経済の矛盾が、一時的に覆い隠されてしまった。そのことがさらに社会主義圏の内部矛盾を拡大し、歴史は社会主義圏崩壊へと進んだ。歴史のアイロニィである。1980年代のソ連や東欧社会主義国では、コルナイ・ヤーノシュ『不足の経済学』が「どん詰まり社会主義」の理論的解明を与え、この書が体制改革のバイブルとなって現実の体制崩壊へと突き進んだ。日本でもコルナイの著作は専門家の間で盛んに読まれたが、それが政治の世界に反映することなかった。
 社会主義崩壊を関先生がどのように認識していらっしゃったのか、今では知る由もないが、旧左翼へ宛てた「20世紀社会主義への惜別のメッセージ」である拙著『ポスト社会主義の政治経済学』(日本評論社、2010年)やコルナイ『コルナイ・ヤーノシュ自伝』(日本評論社、2006年)は、ともに関先生のご子息にお送りした。お手許に届いたかどうか。
 今ではもう現代経済学批判を展開する人もいなくなり、若い研究者たちは社会問題意識をもつことなく、淡々と論文になりそうなテーマを追いかけている。何とも詰らない時代になった。今こそ、再び関恒義のように、果敢に正統派経済学に真正面からぶつかる俊英が必要とされる時代なのだが。関先生も、そういう想いをお持ちになって、旅立たれたのではないかと思う。

(もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)