日本で「安保」法制と呼ばれる集団的自衛権を容認する法律が国会で採択された。集団的自衛権の容認は国外にいるわれわれにとって無関係なことではない。アメリカが惹き起こす戦争へ武器を持って日本が参戦すれば、海外在住の日本人も攻撃の標的になることを忘れてはならない。

 集団的自衛権を容認・行使することが憲法違反であることは、第一次安倍内閣を含め、歴代の自民党政府が繰り返し言明してきたところである。しかし、戦後日本の政治社会の中には、日中戦争を侵略戦争として認めず、朝鮮併合を植民地支配として反省せずに、日本帝国主義の歴史を肯定する集団がそれなりの力をもってきた。「みんなで靖国を参拝する国会議員の会」などという奇妙な政治的示威行為が連綿と続いているのも、その歪(いびつ)な現れの一つである。
 1990年代初期の湾岸戦争で、日本が1兆円もの経済支援をしたのに、その貢献が国際的に評価されなかったことから、やはり軍事的な貢献なしには国際的評価は得られないと考える政治家・官僚が増え、憲法9条の改訂をめざし改憲勢力が虎視眈々とその機会を窺ってきた。そして、尖閣諸島の領有権をめぐる争いや、中国の西沙諸島や南沙諸島への海洋進出に対抗すべきだという政治勢力が勢いを得て、解釈改憲を推進してきた。

 この集団的自衛権容認派の認識に欠落しているのは、日本がアメリカの軍事的従属下にあるという厳然とした事実だ。日本の保守勢力は戦後の一時期を除き、アメリカの戦後占領から続く軍事駐留に抵抗することを諦めてしまった。その分岐点が、1960年日米安全保障条約の締結である。安倍晋三の祖父岸信介が首相として、この条約を締結した。当時、戦後最大の安保条約反対デモが国会を包囲し、条約批准の後に、岸首相は辞職せざるを得なかった。アメリカに日本を売り渡した首相の末裔が、今度は、日本をアメリカの戦争の手下に仕立て上げようとしている。

 1960年安保条約以後、米軍駐留を法的に保証する法的枠組みが変更・廃棄されることなく、戦後70年の歴史的長期にわたる米軍駐留という異常事態が存続している。軍事主権を半永久的にアメリカに渡した安保条約への反対運動を抑制するために、安保条約は「自動延長」されて今日に至っている。政治家と官僚は米軍基地の存在を当然のこととして受け入れ、それを「同盟」と読み替え合理化することで、軍事的主権喪失を隠蔽しようとしてきた。日本の政治家も官僚も、軍事主権をアメリカに渡した現状を合理化する腑抜けたアメリカの従者にすぎない。

 軍事主権をアメリカに渡したままの日本は、これまでも、アメリカが世界で惹き起こした戦争に、最大限の貢献を行ってきた。沖縄の施政権返還にあたって確認された核兵器を日本に持ち込まないという約束ですら、暗黙のうちに持ち込みを容認するという密約まで交わし、国民を欺いてきた卑屈な歴代政府である。100万人以上ものヴェトナム人を殺戮したアメリカのヴェトナム侵略戦争では、日本の米軍基地は最大限に利用された。日本政府はそれにたいして、抗議すら行っていない。直近のイラク侵略戦争でも、開戦根拠がないにもかかわらず日本はアメリカ(多国籍軍)支援を決定し、サモアに自衛隊を派遣した。しかし、保守派は、この程度の貢献では日本は評価されないと考える。米軍と一緒に武器をもって闘わなければ、国際的評価が得られないと考える。

 ヴェトナム戦争でもイラク戦争でも、日本政府は自らの戦争支援行動の総括を国会で行っていない。いかなる根拠で、何故に戦争の後方支援を行ったのか、戦争が惹き起こした災禍にたいしていかなる補償をおこなったのか。理がない戦争を支援すれば、そこから生じる犠牲や災禍への対応が求められるのは当然である。アメリカと一緒になって戦争に加わりながら、その結果については責任を持ちませんという態度は許されない。アメリカは日本と違い、自らが惹き起こした戦争の総括を行っているが、しかしその戦争の災禍にたいして補償することは一切ない。だから、アメリカは世界のあらゆる地域に敵を作り出す。日本はそのアメリカに従っていればよいのか。
 アメリカの駐留をそのまま受け入れてきた日本である。集団的自衛権とは、これまでの受動的な戦争支援から、アメリカの戦争に積極的に参加することを意味する。主体性のない日本が今以上にアメリカの戦争に組み込まれたらどうなるのか。その先は見えている。今の自民党の政治家に、その事態に耐えられる人物はいない。
 そのことは、すでに今現在、もう問われている。アメリカのイラク戦争から始まった中東世界の破壊によって、現在の欧州「難民」問題が生じている。日本はアメリカに追随してきたイラク戦争の結末にたいして、責任はないのか。オバマ大統領は1万人の「難民」を受け入れると表明したが、すぐにそれを1桁増やさざるを得なかった。アメリカが10万人なら、日本は最低でも1万人の難民を受け入れなければならない。今の安倍政権に、その覚悟などあるまい。集団的自衛権を行使するとは、こういうことなのだ。アメリカがやったことだから、日本に責任ありませんなどと頬被りできない。

 山本太郎議員の焼香牛歩戦術が批判されているが、手のひらを返すように憲法解釈を変え、それに誰も反対しないという自民党の翼賛体質は厳しく批判されるべきだ。入閣出来ないから、選挙で公認が得られないから抵抗しない議員など、国会議員の名に値しない。さほど賢くもないリーダーが牛耳っている政党で、誰も異論を唱えられないという体質ほど怖いものはない。そうやって、戦前の日本も、無意味な戦争にのめり込んでいったのではないか。

 今時の安保法制にたいしては社会の各層の人々から反対の声があがった。改憲派として知られる人々ですら反対した。今国会で採択すべきでないという世論が7割に達したにもかかわらず、採決を強行した安倍政権に、どんな算段があるというのだ。

 (もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)