映画好きの母に連れられ、小学校就学前から良く映画館に通った。1950年代前半のことだ。その頃に見た映画の一つが、氏家真知子を演じる岸惠子主演の「君の名は」。佐田啓治が扮する後宮春樹と、何度もすれ違う綺麗な女優さんがいたシーンだけは、今でもはっきり覚えている。数えてみれば、岸惠子が21~22歳の頃、もっとも美しく輝いていた時のことだ。映画制作に先立つNHKラジオドラマの放送時間になると、皆、ラジオの前に集まったことも、淡い記憶とし残っている。銭湯でも、脱衣所のお客が聞けるように、ヴォリュームを上げてラジオ番組を流していた。
 学校に通い出してからは映画を見ることもなくなり、やがてテレビの普及に伴い映画館が次々と閉鎖され、映画界が斜陽産業になっていった。そういう時代に育ったからか、邦画と洋画とを問わず、映画や俳優への興味はほとんどない。
 近年、往年の女優岸惠子がもっぱら文筆で活躍していることや、彼女の恋物語が小説になったことは知っていたが、まったく関心がなかった。15も年齢が離れていると、世代が違う。戦前生まれと戦後生まれでは、戦時体験の有無という決定的な断絶が存在する。
 ところが、最近、岸が1人舞台で自らの恋物語を演じているドキュメンタリー番組を見る機会があった。岸のお相手が、私と2歳しか離れていない男性と知って少々気になった。年齢差よりも、自らの恋愛体験を小説に出来るというたくましさに驚いた。もっとも、岸はもう女優というより、文筆家だと考えれば納得がいく。自分の恋愛体験を私小説にするのだから、大正や昭和の作家たちが自らの壮絶な恋愛を小説にしたのと同じだ。晩年の恋に賭けるというような無我夢中さではなく、華麗なストーリーの主役として、岸は自らの恋を演じたのではないか。そして、それが化粧を施された恋物語になり、相手の男性は恋物語のオブジェに昇華した。
 笙子と名付けられた岸の分身と、九鬼兼太と名付けられた男性との出会いから始まる恋物語の一部始終が、『わりなき恋』(幻冬舎、2013年)と題された小説になった。「わりなき」とは「理無い」、つまり「理屈では説明つかない」、「理屈を超えた」という意味と、「道理に合わない」という意味を併せもつ。歳を取っても、恋心は理屈では説明尽くせないものという純真さを言い表していると同時に、妻子ある男性に恋するという不条理を暗示している。岸が70歳、お相手が58歳の恋物語である。往年の大女優と大会社の重役というセレブな恋は、ふつうの人から見れば現実離れしているが、岸の晩年の恋を彩るのに不足はない。さまざまなフィクションが加えられているとはいえ、ストーリーのほとんどが実話にもとづくものだという。

 人は生きていることを意識している限り、異性への想いや憧れを失うことはない。それが失われれば、人生も終わりである。男と女の間の関係は歳により相手により実にさまざまで、齢を重ねれば、自ずと互いに求めるものや恋の形が変化していくが、恋すること自体に年齢制限のような野暮な決まりはない。
 とはいえ、60歳や70歳にもなれば、それぞれの恋愛経験や社会経験に囚われるだけでなく、さまざまな人間関係の縛りの中で生きているはずだから、単純に恋情だけにのめり込むことはできない。体力も青年時代のそれと比べようもないほどに落ちているから、精神的な満足により大きな価値を求めるはずだ。意識しようとしまいと、晩年の恋にはそれなりの大人の分別が働く。
 岸は離婚して以降は、ほとんどの時間を1人で自由に過ごしてきた。だから、新しい恋が芽生えたとしても、社会的縛りに囚われることはないし、相手を独り占めにしようという意識もない。他方、相手の男性は家庭を顧みる暇もなかった大企業の重役とはいえ、5人の子供から形作られた大家族の絆に縛られている。子供はそれなりの年齢に達しているから、親がいなければ子育てに問題が生じるわけではない。だから、晩年の恋に「不倫」という否定的な響きがある形容は似合わない。とはいえ、30年近くも生活をともにしてきた家族との縁を切ることは容易でない。いかに美貌を誇る往年の女優とはいえ、出会って僅かな時間しか経たず、しかも日々の生活を一緒にすることなく、時折の逢瀬を楽しむ仲だ。その短い時間のなかで、これまでの人生を捨てて、12歳年上の相手と残された時間を一緒に過ごすことを決断するのは難しい。
 口に出すかどうかは別として、男はそのようなそのような決断を避けながら、時折の逢瀬が続くことを望むだろう。それでも、大企業の重役というポストや、家族の絆や社会的地位をすべて投げ捨てて、岸の許へ走ることが許されるのか。男はこの問いかけから一瞬たりとも逃れることができなかったはずだ。大女優との恋が成立するのも、大企業の重役という社会的地位があってのことだ。その地位が失われれば、恋は岸へ従属する日常に変わってしまうではないか。だから、彼は一度も、岸にたいして一緒になろうとは言わなかった。最初から、つまり知り合った出発点から、二人の恋情が深まる深度には限度があった。

 男と女では恋へののめり込み方が違う。それは男と女の本能的な違いでもある。女に感性を優先するから、恋情に打算や計算が入り込む余地は、男に比べてきわめて小さい。とくに自由に生きてきた岸にしてみれば、恋のストーリーを楽しむという本能的な職業意識が働いても、それ以上の打算はなかっただろう。逢瀬の時間にだけすべてを注いでくれれば、それでよかった。
 これにたいして、男ははるかに打算的であり、悟性的である。いろいろなしがらみの中で生きている企業経営者であればなおさら、種々の計算が働く。サラリーマン経営者だから、世界を駆け巡り、その合間を縫って逢瀬を重ねるという映画のような体験を永遠に続けられるわけではない。役員を退陣すれば、会社の経費で世界を飛び回る仕事は消滅する。フローの所得も激減するから、自由な行動に大きな制限がかかる。資産があっても、5人の子供や妻へ残すことを考えれば、自分が使える余地は限られている。思慮のある男なら、こういう計算が頭を駆け巡る。にもかかわらず、頻繁な長期出張の間に訪れる珠玉のような恋のオアシスを求める欲求には抗しがたかった。しかし、それはオアシスであっても、家庭ではない。長期出張の後に戻る家庭は、日常の安らぎを与えてくれるところでもある。そこでは恋のオアシスは、蜃気楼のような幻だ。
 こう考えると、男はずるい。帰る家庭があって、旅に出れば、極上の恋の楽園がある。もちろん、日常の世界と非日常の世界を往復できる極楽を楽しむことのできる男など、そうざらにいるものではないが。岸はそのことを分かっていたから、割り切っていた。男に家庭を捨ててと懇願する意味もないと考えていただろう。しかし、自分が知らない別の日常の世界で、男がどのように生きているのか、気にならないはずはなかっただろう。

 翻って、この二人は本当に恋をしていたのだろうか。岸にとって、この恋は半信半疑の恋だったのではないか。だからこそ、私小説にすることができたのではないか。恋い焦がれて、失意のうちに失った恋を、人は小説にできるだろうか。
 他方、男は生涯を共にする恋人として、岸と寄り添うことを考えていたのだろうか。出張の合間に、パリや蘇州、モスクワやブダペストで逢瀬を重ねる男は、各地で会社の部下に岸を紹介したり、運転手役を任せたりしている。岸がその度、二人の関係を隠し通さない男の不用意さに懸念を伝えている。本当の恋なら、わりなき恋であればなおさら、可能な限り、隠しておかなければならないはずである。しかし、男にそれができなかった。往年の大女優が恋人であるという事実は、隠し通すにはあまりに惜しい「男の勲章」だったのだろう。推測にすぎないが、自らを誇りたいという不用意さが、男の社会的地位の喪失に繋がったのではないか。
 日本の会社、とくに製造業のような保守的社会にとって、幹部経営者の「不倫」の噂は企業イメージにかかわる。欧州の会社で許容されることも、日本の会社では許されない。恋人との逢瀬に社用車を使い、もしかして瀟洒なレストランの食事代を社費で済ませることがあったなら、社内でポスト争いをしている者たちの格好の攻撃材料になる。不用意な言動は致命的だ。男はそこを甘く見ていなかったか。いかに信頼がおける部下とはいえ、人の口に戸は立てられない。まして、大女優岸が恋人となれば、虚実を問わず、あらゆる噂はあっという間に社内に広がっただろう。それを覚悟していたのだろうか。男が岸と付き合って数年後、男が還暦過ぎて間もない歳で副社長を解任されたのは、岸との関係が社内に広まったからではないか。副社長という重役を退くにはあまりに若すぎる。これは男にとって誤算だったに違いない。重役解任とともに、世界の都市を縦横に往来する恋物語も終焉を迎えた。
 なぜ男はこの恋を隠し通そうと考えなかったのか。本当にかけがえのない恋だと思っていたなら、成就させようと思った恋だったなら、その日が来るまで、隠し通したのではないか。だから、最初から成就させようという意思が男にはなかったのではないか。

 多くの恋の終わりは意外にあっけないものだ。偶然に、男の携帯に届いたメイルを目にした岸は、卒倒しそうになった。妻からではない、別の若い女性からの親しいメイルの出だしの文言に目をやった岸は、直感的に別の恋人の存在を感じ取った。その種の噂を間接的に耳にしていたからだ。岸は男を問い詰めるが、納得できる返答はない。もしかして、自分が失った肉体的な若さを、別の女性に求めているのではないか。この恋の始まりから岸がもっとも気にしていたことが赤裸々になった。嫉妬と怒り、屈辱と絶望が、岸の体をかけめぐる。しかし、男は弁解することなく黙り込み、生涯を共にしようと岸を説得することはなかった。こうして、岸の恋物語が終焉ステージに入る。

 長期の海外出張をこなす会社重役が恋のオアシスを求めて、世界の都市で逢瀬を繰り広げる様は、セレブな岸の恋物語にぴったりな筋書きだった。そして、実際にそれが私小説になった。岸が幻冬舎からこの小説を出版する少し前に、相手の男性は同じ出版社から「トヨタ生産方式」の新書本を出した。岸が自らの恋を「わりなき恋」に昇華させたのなら、無粋なビジネス書ではなく、「はかなき恋」の返歌で応えて欲しいと思うのは無理な注文か。

(もりた・つねお  2016年2月)