私は現在、Eötvös Loránd大学の博士課程で日本人の集団主義・集団生活に関する研究に挑戦しています。
 数年前に日本へ留学した時、日本社会全体を動かす様々な共同体の働きの大切さが初めて分かりました。例えば、留学先の金沢大学の「日本文化体験」という授業で、何人かの留学生と一緒に地元の小学校に行って、小学生達に自分の国についての紹介をさせていただきました。昼ごはんの時間には、教室の小さな机の前に座りながら、ハンガリーでは考えられないような日本式の給食を体験できました。小学生の学年はもう思い出せませんが、皆まだ小さかったのにもかかわらず、自分達の教室からテキパキと立派な小食堂を作り上げました。その作業の中で、子供たちが厨房から自分が担当している鍋とかお皿とかを持って来たり、行列に並んでいるクラスメートに丁寧に昼ご飯を配ったりしていたところを見て、びっくりしました。同様に、給食後の教室の片付けにおいても、放課後のお掃除においても、そのクラスの全員が協力して大変楽しそうに頑張っていました。
 それに対して、ハンガリーでは小さな団体のメンバーの協力が必要な場合、物事がそんなにスムーズに行かないような気がします。日本では大人だけではなく、子供たちさえコミュニティの大切さを意識しながら、一つの目的のために力を集められるなんて、私にとっては想像を超えた発見でした。
 この思い出は現在の研究のきっかけになったと言えますが、博士論文ではハンガリーに住んでいる日本人のコミュニティと団体生活に目を向けようと思いました。日本人にとってハンガリーは外国である以上、コミュニティを形成するメンバーの協力は日本におけるそれより何倍も強いはずなのではないかという仮説のもとに、日本人によって開催されている催しを通して、日本人の集団主義と、個人のコミュニティへの執着について研究しています。
 ハンガリーでは思ったより多くの、日本人を対象にしている催しがあるようです。一番印象に残ったのは6月のソフトボール大会です。その時は、まるで日本に戻ったような感じでした。まず、応援に来たたくさんの家族と選手たちの団体がラジオ体操をしましたが、その何百人もの大人と子供の一緒に動いている光景は、日本から遠く離れたハンガリーに暮らしている日本人のコミュニティの強さを証明してくれたように思います。それから、ラジオ体操が終わって、ソフトボール大会の試合が始まると、別々のチームに入っている日本人同士が相手の選手たちを敵というより仲のいいお知り合いとして歓迎し、一緒に笑ったり、応援したりしながら、チーム全員をはじめとして周囲の家族も皆盛り上がっているように見えました。日本人の集団主義に直接関係しているかどうかはわかりませんが、休憩の時、木の下で同じお弁当を食べるということも、ハンガリーではあまり見られない現象でしょう。
 勿論、ソフトボール大会以外にも日本人の集団意識を高める催しがありました。最近、熊本地震で被害を受けた人々のためにブダのある教会で支援コンサートが行われた時にも、演奏者の日本人たちの熱心さや、観客の日本およびハンガリーの日本人コミュニティに対する愛情が十分に伝わってきました。
 私は、日本人のいるところではどこでも、人間関係の大切さや団体活動の活発さなどが目に入るという印象を抱いています。私たちハンガリー人も、自分の身近なコミュニティや環境をもう少し大事に思っていれば、ハンガリー社会全体が強くなり、ラジオ体操や給食がなくても人と人の間に新しい絆が生まれてくるでしょう。

(シュトラウス・ヤンカ)