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今岡十一郎(1888-1973)生誕125年、没後40年にあたり
梅村 裕子


 ハンガリーで生活していると、建物の壁に誰々を記念するという大理石碑をしばしば目にする。日本人でもよく知られている作曲家リストや詩人ペテーフィらだけでなく、各々の分野で社会に貢献した人々の業績を石碑に記して、記憶に残すことをハンガリーの人々はとても大事にしている。そんな名誉ある石碑に初めて日本人が登場した。ブダペスト中心部にあるカフェのギャラリーに掛けられた大理石には次のように刻まれている。「1920年代当地で活動し、ハンガリーと日本の架け橋になった今岡十一郎を、彼が好んだこのセントラルカフェに記念して」。
  記念碑は両国の国交140年と国交回復50年を記念した2009年、日本友好協会と日本人商工会の尽力により設置された。筆者は今岡十一郎の業績についての書籍『日本海からドナウ河畔へ』をハンガリーで出版した縁があって石碑設置に関わった。それから4年が経ち、今年は今岡の生誕125年、没後40年に当たるということで、日本友好協会のヴィハル会長が中心となって石碑に献花し、再び今岡と両国交流を思い起こすささやかな会が11月末に開かれた。以下、当日の挨拶を元に今岡の活動について主なところを紹介する。 

     今岡十一郎はハンガリーと日本の交流において最初の礎を築いた人物である。第一次大戦後の困難の中、1922年に今岡はブダペストへ降り立った。語学の才能に恵まれ、ハンガリー語の習得は短期間で相当レベルに達したようだ。間もなく依頼されるまま日本についての講演や新聞への寄稿を始める。最初は当時欧州にあった黄禍論を弁明するものだったが、その内幅広いテーマで話をするようになる。
それは伝統や習慣、日常生活からはては文学、都市案内まであらゆる領域に及んだ。ハンガリーには自民族の起源からも東洋に対する親近感があって、日本への関心は高かった。そういった背景も手伝って今岡の講演や新聞記事はまたたく間に注目され、ひっぱりだこの人気講演者となったのだ。元々関心の強いところへ、あまりお目にかかったことのない日本人がそれもハンガリー語で講演するというのだから、まるでパンダが来たかのような扱いをされたとしても不思議ではない。実際、講演の宣伝ポスターには「混雑を避けるため講演は3時と6時の二回行います」などと書いてある。今岡は人々の並々ならぬ日本への関心に触発され、お客に暖かい国民性に惹かれ、心から滞在を楽しんでいたようだ。
  1920年代にハンガリーでは日本協会という友好団体が設立されているが、ここでも今岡は中心的な一人として参加した。並行して日本語の講座を受け持ち、まだブダペストに公使館がなかったので、ウィーンの日本公使館からも依頼され様々な役割を担っている。日本人訪問者の案内や通訳、情報収集、行事のオーガナイズなどなど。同時にハンガリー人からは次々と日本関連の依頼や照会が寄せられていた。それは民間人でありながらさながら私的領事とでも言える仕事ぶりである。
  この時期の訪問者として際立つのは1931年の高松宮夫妻ブダペスト訪問であるが、この時も案内兼通訳として同行している。今岡は滞在の最後にそれまでの記事をまとめ『ウーイ・ニッポン(新日本)』と題した書籍を出版し、帰国前には勲章も授かった。この地に根を下ろしハンガリー社会で最初に名前を知られることになった日本人として、輝かしい足跡を残した。彼にとってハンガリーは「もうひとつの祖国」となり、後ろ髪を引かれながらハンガリーを発つ時、別離の手紙にこうしたためた。「ここで過ごした悲しい程の美しい思い出を胸が痛むような幸せな思いで振り返り…」。
 
 今岡は1931年、9年ぶりに日本へ帰国した。長い洋行帰りはまだ珍しく、地方新聞がハンガリーでの活躍ぶりを「花嫁候補二千人」などといささか大げさに伝えている。そして今度は日本の読者に向けてハンガリー紹介を始めた。時代の波もその活動を後押しするような方向へ進みだす。1938年両国は日本にとって初めての文化協定を締結する。働きかけはハンガリー側からで、日本は最初及び腰だったが、折りしも国際的に孤立しつつある時で、友好国を広げ、情報収集に利用するという政治的な思惑が絡み合って締結に漕ぎ着けた。こうして両国関係は公的なバックアップを得て交流に弾みがついた。戦争へ進む暗い時代の関係で偏った面もあるし、政府宣伝的な要素も見られる。しかし、日本とハンガリーは実質的な政治利害関係はそれほどなく、協定によって行われた多くの活動や行事も文化を対象にしたものがほとんどだった。
  具体的にはどんな交流だったのだろう。双方の国でお互いを紹介する出版物が発行され、クラブ的な集りや講演会、展覧会があり、交換留学生が送られ、大学付属の語学学校ではハンガリー語の講座が開かれた。最も顕著な活動を手広く担っていたのが今岡である。ハンガリーとの交流や研究を目的とする日洪文化協会が設立されたのを機に、会報誌『日洪文化』を編集長として発行し、歴史、文学、伝統の紹介から政治情勢や名所案内まで幅広く書いた。会員向けの冊子とはいえ、日本で様々な分野についてのハンガリーが紹介されたのは初めてのことだった。ハンガリー人に蒙古斑が出るとか、言語的に近いという現在まで伝わる話はこの時に広められた。
  今岡は書籍や多くの記事でも活発にハンガリーを書いた。特に文学の翻訳ではペテーフィやマダーチを始めハンガリー文学の神髄を紹介している。語学書として出した『ハンガリー語4週間』は戦後も長く唯一の語学書として再版を重ねた。1939年ハンガリーは枢軸同盟に参加して日本の同盟国になり、しばらくは活発な交流が続いた。しかし戦況は激化し徐々に文化活動どころではなくなっていった。
  終戦とともに国交は断絶し、交流団体のすべては解散する。両国関係の上では冷戦の両陣営に分かれた暗い時代が到来した。国交回復に向けた動きが始まるのはやっと50年代半ばになってからだ。そんな中1956年のハンガリー動乱が勃発する。共産主義の国で初めて民衆が蜂起したこの事件は世界を揺るがせた。日本でも特に左派陣営には大きな影響を与えている。一方、右派が中心になって『ハンガリー救援会』が立ち上げられ、亡命難民らのために募金活動が展開された。それまで活動を休止せざるを得なかった今岡に再び情報発信の機会がやってきた。講演会で話し、募金に奔走し、集まった善意を携えて実際にウィーンへ出向いて募金を届け、難民収容所や国境までも視察している。しかし、ハンガリー再訪は遂にかなわなかった。帰国後は招待したハンガリー人の若い亡命者と共に全国を回った。当時の報告書を読むと、いかに一般の人々の関心を惹いていたかがわかる。
  この後1959年には正式に国交が回復し、限られた関係ではあったが、スポーツや芸術を通してだんだん人の往来も増えた。動乱後、表向きはハンガリー関係から遠ざかっていた今岡は、一人でハンガリー語辞書の執筆、編纂に全精力を注いでいた。原稿は仕上がっていたが、商業ベースで採算の取れない辞書の出版は困難をきわめた。結局、自費出版に踏み切る。もう老齢で肺を患う今岡にとっては時間との闘いである。1973年、両国は新たに文化協定を結ぶことになった。調印式は東京で行われ、仮刷りで仕上がった今岡の辞書が両国間の発展を期して、当時の大平外相からハンガリー側に手渡された。その年の9月、刷り上ったばかりの辞書を胸に抱いた翌日、今岡は旅立っていった。特別な報酬や名誉を与えられることもなくハンガリーのために生涯を捧げた人生であった。このハンガリー語・日本語辞典は5万5千語から成る本格的な辞書で、2001年に大学書林から再版された。未だにこの辞書を超えるものは出版されていない。こうして今、石碑が掲げられ今岡の業績が少しずつでも知られようになるのはとても嬉しいことだ。
  ところで、石碑を設置して日本人の活動を記念してもらっているので、日本でもハンガリーの誰かを記念できるのだろうかと思いを巡らせた。戦前に東京の公使館で活動し翻訳書などを出したメツゲル・ナーンドルとか、最近その名が知られるようになった彫刻家のワグナー・ナーンドルなどの名が頭に浮かぶ。最近は二人の業績を研究する試みもあり興味をもって注目しているところだ。
  しかし、すぐに気が付いたのは、日本では石碑を設置して記念したりすることがないという事実である。それから続けて思い当たったところ、そう言えば日本ではハンガリーと違い場所や組織に人の名前を付ける
こともしない。ハンガリーなら歴史上の偉人であるコシュートやセーチェーニを始め通りの名前から学校名などなど、すぐに20や30の名を挙げることができる。でも日本では徳川家康通りもないし、夏目漱石学校も、聖徳太子寺もない。銅像というのもけっこう限られていて、西郷隆盛などあるにはあるがかなり少ない。最近ではほとんどがサザエさんとかゲゲゲの鬼太郎など漫画の主人公だろうか。
  なぜこうなのか、そう簡単に答えがあるわけではないが、やはり日本には無常観などというのがあって、ずっと先まで何かを残すということをあまりやりたくない気持ちがあるのかなと思う。それと外壁に設置する石碑といっても日本の建物は欧州の建物よりずっと寿命が短いので、石碑を設置しても建て替えとともに無くなってしまうからかもしれない。
  もちろん、亡くなった人を記憶に留める行事がないわけではない。法事などは2、3、13、17、23、27、33、50回忌などとかなり丁寧にやっているのだから。でもこれはあくまでその家族、親戚を思い起こすもので、公のものとは違う。こう思うとやはりハンガリーの習慣は日本人から観てもいいものに思える。有名な人の生誕記念とか聖人のお祭りとか、歴史的記念日に皆が一緒に思い起こして祝い想いを馳せることができるから、国民がひとつの家族のような感じがする。石碑の習慣は日本にないけれど、これからは何かの機会を見つけて日本でもハンガリーを記念する行事ができたらいいと思う。最後にドゥナウーイヴァーロシュの児童合唱団が「雪の降る町を」など日本の歌をとてもきれいに歌って会に花を添えた。
(うめむら・ゆうこ ELTE大学)
 
 

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