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萃点(すいてん)
Szalay Péter


 私には『民俗学探訪事典』という、毎日持ち歩いているほどのお気に入りの本がある。これには一昔前の稲作から櫛の種類まで、私が興味あるもののほとんどがカバーされている。
 先日もこの本をめくっていると、ホウキの記事が載っているページに辿りついた。そこでずいぶんと久しぶりに「箒」の字と出くわした。何か不思議な縁を感じた。どこかで見たような気がした。「そうだ!『箒』は夫婦の『婦』の右側だったんだ!『女』の人に『箒』を与えたら主『婦』になるのだ!」と悟った。確かに、主婦にとって毎日の掃除は大変である。これは一理ある。やはりここ三千年何も変わっていないようだ。しかも、よく見たら、掃除の「掃」そのものも「手」に「箒」である。
 実は中国の歴史をさらに遡ると、どうもホウキの絵そのものが主婦の意味を持っていた時期もあったようである。漢字研究者のほとんどは「家の掃除は女の人の仕事であったからだ」と説明しているが、ホウキは女の人の苦労の象徴ではなく、一族の祖先の崇拝に使われた儀礼用の道具だったのではないかと説いている学者もいる。
 私は中国の歴史は詳しくないため、なんともいえないが、日本では確かに、今も荒神箒という特別なホウキが地方で使われている。自分の妻をふざけて荒神と呼ぶ人もいるらしいが、ここでいう荒神は奥様のことではなく、カマドの神、すなわち火の神を指している。
 
だから日本ではカマドの掃除は大変な苦労を意味するとともに、聖なる行為でもあった。そしてやはり基本的には女の人の仕事であった。このように、漢字の中には、中国の文化に基づきながらも、日本の文化にも十分当てはめて考えられるものが少なくない。
他方、実は日本語の立場から見れば余計な漢字もかなり多い。すなわち、まったく同じ言葉に複数の漢字が与えられていることである。「掃い」(はらい)と「祓い」(はらい)はその好例である。というのも、日本人にとっては物質的な「汚れ」(けがれ)の「掃い」も精神的な「穢れ」(けがれ)の「祓い」もそれほど変わらない。神主が振るう大麻(おおぬさ)と掃除用のハタキも、見た目はかなり似ているのではないか。

 私は見習いの民俗学者である。ブダペストのELTE大学を卒業して間もなく大阪大学に入り、あと1年ほどで博士号を取る予定である。私の学生としての人生がもうすぐ終わってしまう。そのせいか、最近私は、自分の学問をどのように人のために役に立てようか、そもそも自分の学問とは一体何なのか、と考え込んでしまうことがしばしばある。
民俗学は日本語教育などのような実用的な学問ではない。だが、日本文化に触れた学生がよく聞く「何で信号が『青』になるのか?」、「何でハレの日には赤飯を食べるのか?」、「門松は何のために立てるのか?」のような素朴な疑問に一所懸命答えを出そうとしているのは民俗学である。
 もし教師になることがあれば、漢字を切り口にして学生に日本の文化の面白さを見せたいと考えている。そしておまけに楽しく漢字も習得させることができればと思う。すでに持っている知識が新たな知識と結びつく。すなわち物事のつながりの発見。そのひらめきの瞬間が学問の醍醐味だと私は思っている。

 現在、私は南方熊楠(みなかたくまぐす)という民俗学者の思想について論文を書いているところである。彼は「南方曼陀羅」と呼ばれる世界のモデルを、その親友、真言宗高僧の土宜法竜(ときほうりゅう)に書簡で明かにした。これを簡単に説明すると次のようになる。
 世界のあらゆる現象と事物は何かの縁で無限に繋がっている。そのいろいろな縁は蜘蛛の巣のようにお互いに繋がっているため、どこからでも同じ真理にたどり着ける。だが、交差する縁が多ければ多いほど早く真理が見えてくる。このような多くの縁が交差する点を南方は「萃点」(すいてん)と呼んだ。
 私の学問が日本に興味を抱いている人々の出発点となり、そしてまた新たなつながりの発見を通して、求める真理に導くような「萃点」となれたら、なによりもうれしい。

 
(さらい・ピーテル 大阪大学大学院)
 
 

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