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ご会葬者へのご挨拶
大石 亜希子


 ご参列の皆さま、本日は大変ありがとうございます。佐藤経明の長女、大石亜希子と申します。ここでは私から、病気の経過とこの葬儀のスタイルに至った経緯について、ご説明申し上げます。

病気の経過
  本日ご出席の皆様には、父がお送りした「闘わない闘病記」や「病状報告」で詳細を御存知の方が多いと思われますので、簡単に病気の経過を振り返ることに致します。

 父は1925年(大正14年)4月23日、朝鮮半島・平壌にて5人きょうだいの二男として生まれました。胃がんが発見されたのは86歳だった2011年11月のことで、当時の主治医は父の病状から、手術には適さないケースであり、余命半年〜1年と診断していたようです。しかし抗がん剤治療が奏功してリンパ節転移の縮小がみられたため、2012年6月に胃全摘手術を受け、その秋から抗癌剤治療を再開しました。その後、QOL(quality of life)を考えて2013年10月に抗癌剤治療を自主的に中止しております。今年の春からだんだんと疼痛が頻繁になり、2014年6月27日に消化管狭窄による激しい嘔吐で虎の門病院分院に緊急入院いたしました。入院後、一時は流動食が食べられるようにもなりましたが、やがて狭窄の悪化から食事はとれなくなり、ほぼ1か月間、点滴のみで過ごした後、8月3日に容体が急速に悪化し、8月4日(月)午後11時32分に最後の呼吸。医師の到着を待つ間に翌日になり、2014年8月5日(火)午前1時32分死亡確認となりました。直接死因は「胃ガン」、初診から2年10か月、手術からは2年2か月弱生きて、89歳3か月の人生でした。

 入院中も新聞は欠かさず読み、気になる記事の切り抜きで枕の周りは散らかりっぱなしでした。昏睡状態に陥ったのは日曜日の深夜でしたが、その朝まで自力歩行でトイレに行っておりました。夜には体力が落ちて会話はできなくなっていましたが、昏睡する2時間前まで学者仲間からのメールを読み、母の呼びかけ声を聞きながら徐々に意識を失いました。そして24時間昏睡した後、孫(=私の息子)と私に手を握られながら息を引き取りました。

葬儀について
 本日の告別式は、私が父から渡された「覚書」に沿ったものとなっております。父は胃癌になるはるか前、2000年の時点で葬儀については明確なイメージをもって私に指示しておりました。ただ、友人が次々と先立っていかれたのは父にとって大きな誤算でした。

「覚書」を書いた当初は、友人の唄う第六高等学校の寮歌で送られることを希望しておりまして、それを耳にした辻義昌さんが「その頃には誰も残っていなくて六高寮歌は多分、不可能でしょう」と、憎まれ口とも励ましともつかないことをおっしゃったそうですが、その通りになってしまいました。昨年秋には親しい友人である堤清二さんも亡くなりました。そのため父のプランは修正を余儀なくされ、本日は毛里先生と栖原先生にお話をお願いした次第です。

本日流れております音楽は、父が最期に聴いていたクラシックの弦楽六重奏、そしてジェーン・バーキンです。ところどころ、セクシーすぎるため息が聞こえたかもしれませんが、このバーキンは父の指示によるものです。セルジュ・ゲインズブールの死後、喪に服していたバーキンが再活動を始めた1996年には、わざわざ海外出張の予定を変更してパリのオランピア劇場に駆け付けたほどのファンでした。

 ところで、父の人生で最も大きな打撃だったのは、最初の子ども、私の兄に当たる高彰を病気のため、わずか3歳で亡くしたことです。後ほど棺の中に兄の写真が入っているのをご覧になると思いますが、おそらく父は一日たりとも兄のことを忘れたことはなかったと思います。父が長く生きることにこだわったのも、兄のことを覚えている自分が生きている限り、その子は本当に死んだことにはならないと考えていたからだと思います。闘病中の父のモットーは、「息をしている限り私は希望を失わない(Dum Spiro, Spero)」、そして「Man is immortal」でした。

 もうひとつ、棺の中の父の顔をご覧いただきますと、鼻の頭が赤くなっているのにお気づきになると思います。これは2年前の手術当時から父に優しくしてくださっていた美しい看護師さんが、「佐藤さん、酸素マスクが当たって痛いでしょう」と鼻にパッドを貼ってくれまして、その痕跡が残っているのです。貼ってもらったときにはもうほとんど話せなくなっていましたが、父は、それはそれは嬉しそうな顔をして、感謝をこめて看護師さんを見上げておりました。葬儀屋さんからは、「ファウンデーションを塗って隠したらどうですか」と言われたのですが、ご愛嬌と思ってそのままにしてあります。

皆さまへの感謝
 さて、晩年の父は、近所のフィットネスクラブでの水中ウォーキングに加えて、読書、クラシックカメラ、展覧会巡り、クラシックコンサートなど多くの趣味を楽しんでおりました。そして父の精神生活を何より豊かなものにならしめたのは、ここにご参列くださっている皆様との交流でした。大学を退職したのは1995年ですが、退職後も学会や研究会、プライベートな集まりに頻繁に出かけておりました。私は「いい加減にしないと『老害』と呼ばれますよ」としばしば忠告したのですが、一向に聞き入れる様子はなく、周囲の皆様のご厚意に甘えながら、83歳だった2008年8月にはロシアにさえ出かけました。フルシチョフの墓前で撮った写真が残っております。

 父にとって幸運だったのは、退職した頃からパソコンとインターネットが家庭に普及しはじめたことで、海外の情報を入手したり、国内外の友人・知人とのコレスポンデンスをすることが驚異的に容易になりました。父のコレポン好きはおそらく有名だったのではないかと思いますが、そうした交流によって、精神の活力を最後まで維持できたのだと思います。皆様、長年に渡りお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。また、今後も家族一同、何かとお世話になるかと存じますが、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

2014年8月8日 告別式にて

 
(おおいし・あきこ 千葉大学法政経学部教授)
 
 

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