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戦後70年、体制転換26年に思う
盛田 常夫


  ハンガリーと日本の最近の政治を見ていると、歴史も社会事情もまったく異なる二つの国の様相が酷似していることに驚く。政権政党が議席の3分の2を占め、政権批判を極力排除し、歴代政府が逡巡してきた領域へ突進するという独裁的手法がそれだ。過去の過ちから学ぶことなく、強い思いこみが主導する危うい政治だ。人は、政治家は、そして社会は、どうして何度も同じ過ちを繰り返すのだろうか。
 拙著『ポスト社会主義の政治経済学』(日本評論社、2010年)で分析した課題の一つが、「社会転換における変化と継続」である。日本が天皇制国家から議会制国家に転換して70年、ハンガリーが共産党独裁国家から議会制国家に体制転換して26年の時間が経過した。その社会的変動のなかで人々は何を学び、何を学ばなかったのか、社会は何を変革し、何を保持し続けてきたのだろうか。大きな社会変動の過程で、人々の意識や価値観はどのような変貌を遂げたのか、それとも旧来の意識や価値観が生き続けているのだろうか。
 天皇制国家や社会主義国家が崩壊した日本やハンガリーのように、大きな社会変動は政治経済制度の根本的な転換を帰結するが、必ずしも人々の価値観の転換を伴うものではない。旧体制の支配が崩壊すれば、政治制度の転換は比較的容易に行われる。しかし、社会を構成する人々の意識や慣習、あるいは価値観が即座に変わることはない。なぜなら、人々の意識や価値観は旧体制の社会生活の中で長い時間をかけて形成されたものだからだ。古い意識と価値観は新しい社会体制下でも生き続ける。
 社会的価値観の転換を難しくしているのは、社会転換がもつ固有の特性である。人の成長過程では古い細胞が死滅し、新しい細胞が生まれる。これにたいして、社会的転換では、一部の権力者が処刑されることはあっても、ほとんどの人々は社会的役割を変えて生き続ける。それがまた社会の継続性を担保する。社会的役割を変えて新しい社会を構築するところに、人間社会の特徴がある。
 チェコの体制転換では共産党員を公職から追放する措置が取られた。しかし、旧体制の人材を徹底排除することは不可能で、有能な人材を新しい社会制度の建設に利用しなければならない。公職追放は一定の時間を経て、自然に有名無実化する。この点では日本の戦犯の公職追放も同じである。ソ連との覇権争いから、アメリカは天皇の戦争責任追及を放棄し、ほどなく戦犯の公職追放を解除した。この結果、戦前の体制を支えた人々がさまざまな公職に就くことになった。小林多喜二を撲殺した特高警察の刑事やその上司も、何もなかったかのように、それなりの社会的地位を築いた。もちろん、個々人の良心や社会的倫理は問われるべきだが、大きな変動の渦中で人々は過去の罪を問うことを止め、当事者もまた良心の呵責を覚えることなく自らを免罪する。
 このように、政治経済制度の転換が起きても、人々の社会的意識や価値観が自動的に変わることはない。戦後日本の教育内容は根本的に変わったが、旧体制の人々が公職復帰するにつれて、またぞろ古い価値観が頭を持ち上げてきた。平和教育や民主主義教育は次第に廃れ、戦前の過ちから学ぶ教育は限りなく劣化してきた。戦前の苦い体験を糧にした政治家が退場した日本では、戦争を知らない政治家をたしなめる重鎮がいなくなった。それを良いことに、戦後生まれの政治家たちが、戦前の価値観の復活に躍起になっている。
 ハンガリー社会主義体制の崩壊の最大の原因は、市場経済を抑圧したために、経済発展に裏付けられた福祉国家を建設できなかったことだ。ところが、オルバン政権はカーダール社会主義政権と同じ過ちを犯している。市場経済の発展を抑制することが、民族国家ハンガリーを発展させることだと信じている。権力者の強い思い込みは、国を滅ぼす。
 かくように、日本もハンガリーも、社会が自らの歴史から学ぶことは難しい。
 帝国国家日本は朝鮮を植民地化し、朝鮮労働者を「タコ部屋」に閉じ込め、九州の炭鉱や北海道の開拓で奴隷のように酷使した。戦場には朝鮮人慰安婦を多数送り込んだ。「民間業者がやったことだから政府に責任はない。慰安婦は売春ビジネスだ」と合理化する歴史修正主義が台頭している。帝国日本は中国に満州国を建設し、植民支配を拡大しようと南京を攻略した。他国の領土を支配下におきながら、「侵略の定義は国際的に確定されていないから必ずしも侵略とはいえない」、「南京攻略で殺されたのはみな軍人だから虐殺ではない」という議論が、堂々とまかり通っている。それもこれも、「自虐歴史観を持つ者は反日で売国主義者」という思い込みからきている。
 敗戦後も、多くの人が「チャンコロ」や「チョン(チョウセン)」と、中国人や朝鮮人を蔑(さげす)んでいた。国民に根付いた感情は簡単に消えない。「バカチョン」は「馬鹿でもチョウセンでもできる」という侮蔑用語。中国人と朝鮮人への蔑視はネトウヨや在特会に受け継がれている。「何回も謝ったからもう良いだろう」というのは加害者の言い分。加害者が自分の犯罪行為を忘れても、被害者の傷は一生消えないものだ。
 日本でもハンガリーでも、メディアは政府の仕返しを恐れて、政府批判を控える傾向が顕著だ。「アカの言っていることは正しいが、貧乏人がそれに染まると就職できなくなる。アカは金持ちがやればよい」というのが、母親の口癖だった。今でも、お上に盾突く「アカ」は社会の敵だと考えている時代遅れの人々も多い。北朝鮮を笑えない。
 戦前教育の名残で、我々の中学生時代まで、教師は簡単に生徒に手を出した。他方で、中国戦線にいた図工の教師は、「戦争は絶対いけない」と繰り返した。中国人を池の端に座らせ、日本刀で首の皮一枚を残す首切りを競った。帰国から10数年経っても、自分が手を下した悪夢に奇声をあげて、夜中に家人を起こしてしまうと生徒の前で告白したのを忘れることができない。
 我々団塊世代は、こういう戦後社会の中で育ってきた。
(もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)
 
 

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