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叙勲への返礼の辞
2010年5月26日
キッシュ・シャーンドル 
翻訳 キッシュ・レーカ

 
 はじめに、大変光栄な勲章、旭日中綬章の受賞に対し、深い感謝の気持ちを表したいと思います。両国の経済関係促進を手がけてきました約30年間の間では、複数の日本やハンガリーの機関、パートナーと友人の手助けが必要でした。この度の勲章は彼らの働きに対するものでもあると信じています。長い間のご協力をここで感謝申し上げます。
  両国の関係は深い歴史を持っております。日本とハンガリーはお互いの事を友好的な国としていつも捕らえておりました。これは歴史の荒波の中でも変わることはありませんでした。日本とオーストリア・ハンガリー二重帝国は1869年に友好、貿易、航行条約を結びました。歴史的な事実ですが、ハンガリーはその当時オーストリアの影なる存在でした。けれども条約が結ばれた当時から事業家のレベルでハンガリー人は日本にいました。1869年の秋に、二重帝国の一行が日本の土地を踏むころには横浜にクーン社が店を出しておりました。最初のころの関係を探ってみますと、文化がとりわけ大きな役割を果たしていたことが分かります。例えば1886年に、明治天皇陛下の前で演奏をした初めての外国人音楽家の中には、バイオリニストのレメーニ・エデ氏がいました。1890年辺りから両国の直接の貿易関係も発展していきます。ハンガリーは銅、米、家具などを日本から買い、砂糖、魚雷、レントゲンチューブを日本に売りました。残念なことに、第一次・第二次世界大戦の間は公式な外交・貿易関係が途切れてしまいますが、その後、関係がまた再開され、新たな力でなお一層関係作りが続きます。
 
 
キシュさんと伊藤大使
 
キシュ一家と伊藤大使ご夫妻
 
 ハンガリーでもあまり知られていない技術の天才についてお話したいと思います。シコシ・ヤーノシュ氏は第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜になり、シベリアのヴラジヴォストクの近くに連れ去られました。生まれながらの才能でどんな機器でも直すことが出来、新しい機器も自ら作ることができたのです。捕虜収容所でもビジネスを始めていた様です。ロシア軍から日本軍が収容所を引き取った時にハンガリー人捕虜の状況が大分よくなりました。24歳の時に自由の身になるのですが、お金持ちとして横浜に到着し、自動車修理所を設立し、そこに住む様になります。その後、冷蔵庫製造の方面に移っていきます。日本初の工業用冷蔵庫は彼が設計し、製造しました。日本人の女性と結婚し、家族を持ちます。横須賀の潜水艦ベースに自由に出入りができたそうです。日本からハンガリーに戻るつもりはなかったようです。日本を理解し、日本人と仕事をすることがとても好きだった様です。1969年に亡くなり、横浜外人墓地に眠ります。妻の糸恵さんは墓石に次の誌を書き残ました。
 
        ジョン・シコシここに眠る。
数奇なる運命のもとハンガリーに生まれ日本に死す。
秀でたる素質とたゆまざる努力と意志の人。
与えることのみにて求めることのなかりし人。
その碧き瞳、やさしき声音、
強き腕よ。
ああ我亡きあとこの稀なる人を
かくも切なく偲ぶ者のあらんや。糸恵
 
 なぜシコシ・ヤーノシュの話に私が興味を持ったかと言うことですが、彼は現地に溶け込むことの大事さを知っていたからです。技術的にも、人間的にも難しいことが多々あったに違いない。失敗も色々とあっただろう。しかし、彼はそれらの問題を乗り越え、日本人と共に仕事をする方法を学んだのです。たった一人の外国人として日本人のなかで仕事をしたのです。
  さて、私はこれと似たようなことをハンガリーで目の当たりにしています。数人の日本人がハンガリーに来られ、工場を設立する。私の勤務中にTDK、マジャールスズキ、シャルゴタリャーン市のグラスウール、ソニー、デンソーなどなどの建設がありました。許可取得から建設、試運転、そして生産までの過程でさまざまな問題点が発生しました。数人しか現地にいなかった日本人はハンガリー人との仕事の方法を学びました。大きな問題も、些細な問題も一つずつ片付けられ、場合によっては時が解決をした問題もありました。人間的な衝突の背景にはお互いをよく理解できないことがあったと、私は思います。日本とハンガリーの仕事のリズムに違いがあります。理解したい姿勢があればほとんどの問題が解決できます。現地にいる企業同士が、職種が違っていたとしても、ハンガリーでの経験をお互いに素直に打ち明け、相談した方が問題点や失敗を防ぐことができるということは、私にとって大きな発見でした。そして、スピードは遅いですが、ゆっくりとハンガリー人も日本の仕事文化に慣れ、変わってきていることも忘れてはいけません。融合が始まっています。
  品質についてもまたお話したいと思います。ヘレンド磁器はハンガリー人の誇りです。私は1986年の大相撲日洪友好杯の設立者の一人でしたが、この友好杯はハンガリーの名を日本で広め、ヘレンド製品の輸出の促進で大きな役割を果たしたと思います。私は友好杯を20回以上渡しており、そのたび友好杯のマーケティングの力を感じました。日本市場の要望を探り、数多くの新製品が日の目を見ることになりました。例えば、キリン・マグコレクション専用の6種類のビールジョッキなどがその一例です。ヘレンドでは日本の品質管理システムを導入しました。160年の歴史を持つ工場ですので、磁器製造で知らないことはないと皆が思っていましたので、90年代の初めに日本の監査官がわが社の製造・品質システムの照会をすることを承諾するのにだいぶ時間がかかりました。大きな改善、小さな改善、まだまだする余地がこんなにたくさんあると判明した時はびっくりしました。改善の方法とその影響を目の当たりにしました。はじめのうちは反発もあり、導入に時間がかかるところもありましたが、実行してよかったと思います。1996年にはヘレンド社はIIASA-Shiba 賞を受賞しました。
  まとめて言いますと、今日現在まで、「品質とは何か」、「良い工場の建て方」、「工程の改善方法」など、勉強すべき点は数多く残っています。きっと将来的にもテーマに昇ることと思います。
  年々世界がスピードアップし、コミュニケーションになんの障害もなくなっていることが見えます。けれどもその反面、座って、ゆっくり話し、解決すべき問題点も増えてきているように見えます。私が率いるハンガリー・日本経済クラブもこの問題点を重視し、ホワイトテーブル外交の重要性を発言しています。日本についての知識を若い世代の間で広めることを大事に思いますので、2005年から5年おきにハンガリー人高校生の間で日本についての全国的な知識大会を開催しております。
  私はこれらの目標は重要であり、かつ意味のあることだと信じています。この度の大変光栄な叙勲はこの道を歩んでいくための力の源となりました。
ありがとうございます。
 
 

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