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アベノミクス理論の崩壊
−浜田宏一内閣参与の理論撤退
盛田 常夫


経済学と経済学者の傲慢
 現実的な根拠のない政策展開を擁護するのは、真摯な理論的な姿勢からほど遠い、イデオロギー的な扇動である。アベノミクスを擁護する「経済学者」(アベノヨイショ)の多くは三文学者だが、浜田宏一氏は経済学の世界では国際的に名の知られた学者である。その浜田氏があまりに安倍内閣に肩入れするのを危惧した教え子たちが、浜田氏に政治への過剰な関与を諫めることができる学者(たとえば故青木昌彦氏)を探していたことを知っている。学者の晩節を汚してはいけないという思いからである。
 社会科学のなかでも、経済学は現実経済を左右する政策に関係することから、特権的な位置にある。とくにアメリカでは経済学者の個別の理論が現実政策に採用されることがあり、経済学者が政府の政策に与える影響力は非常に大きい。こうした理由から、日本の経済学者はアメリカの経済学者の理論動向に目を配り、アメリカ政府が採用する経済政策を日本に持ち込むことに熱心だ。アメリカ政府の経済政策展開における経済学者の地位は日本のそれに比べてはるかに高く、それを知る日本の経済学者には忸怩たる思いがあった。とくにアメリカに留学した学者にその傾向が強い。ところが、「アベノミクス」で、漸く「経済学者」に陽の当たる出番がやってきた。競ってアベノヨイショをやって、日銀総裁や副総裁のポストを得るか、政府の顧問になろうとする流れができた。
 しかし、経済学は自然科学に比べて、はるかにその科学性は低い。ほとんどの経済理論は複雑な経済現象を単純化して、経済の部分現象の一部を一般化するものだから、理論的結論が有効な経済政策提言へ結実することはない。この理論と政策の距離を無視し、単純化された理論的結論から現実の政策展開を行おうとすれば、イデオロギー的な政策主張に陥りやすい。アベノミクスはその典型である。しかし、政治家をヨイショする高慢ちきな経済「学者」が自らの誤りを認めることはない。理論的分析にもとづく政策がうまく作用しないのは、外的要因が作用しているからだと強弁するのが常である。
すべての経済理論は極めて限定された条件を前提している。逆に言えば、理論が前提していない現実要因は無数に存在する。だから、理論通りに政策が現実経済に作用しないのは当然なのである。アベノミクスを擁護する三文学者はアベノミクスがうまく機能しないのは、やれ消費増税があったから、やれ想定外の円高が進行したからと弁解するが、その程度の要因を前提にしない理論や政策など、何の役にも立たないことを理解できないのだ。


理論的な誤りを認めた浜田宏一内閣参与
 11月15日付けの「日本経済新聞」は浜田宏一内閣参与のインタビュー記事を掲載した。このインタビューの中で、浜田氏は、「私がかつて、『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象』だと主張していたのは事実で、学者として以前言ったこととは、考えが変わったことは、認めなければならない」と述べている。漸く、浜田氏は現代の先進経済国におけるデフレ現象を、実体経済に起因するもので、貨幣的な現象でないことを認めざるを得なくなったのである。とすれば、市中の通貨量を大量に増やす政策は、金融市場を活性化させても、実物経済に与える影響はほとんどない。だから、大仰に叫んできた政策目標である「インフレ目標」も達成できない。
 誤りを認めるのなら早いほうが良いに決まっているが、すでにここ4年の金融緩和政策によって、日銀は膨大な国債を抱え込んでしまった。さらに、この政策展開過程の中で、年金基金の資産運用政策が変更され、リスク資産である株式への投資割合が大幅に引き上げられた。それを主導したのは、同じく、リフレ論者の伊藤隆敏氏(現、イェール大学教授)である。
 日銀の金融緩和政策と年金資産の株式投資は、今後の日本経済と社会に大きな負の影響を与え続けるだろう。しかし、政治家も学者も、誰もその責任を取ることができない。ここには「究極の無責任」が存在する。この間違った政策がもたらす負の遺産は、長期にわたって、日本の若い世代が背負って行かなければならない。いずれ歴史は、安倍内閣が遂行したアベノミクスが戦後最大の経済的災禍を与えたものとして記すことになるだろう。目先の利得や愛国心を煽る知性に欠ける宰相を支持した国民が、最終的に、政府と日銀が抱え込んだ負の遺産を引き受けなければならない。政治家を見る目をもたなかった日本国民の自業自得である。

懲りない「アベノヨイショ」の御仁たち
 御大浜田氏が理論的な誤りを認めたことに、アベノヨイショの三文学者が右往左往している。「日経の記事で、浜田氏は金融緩和政策が誤りだったとは言っていない。日経の誤報だ」(高橋洋一)とか、「浜田氏に金融政策の誤りを認めさせたがる困った人たちがいる」(田中秀臣)などと、御大の理論的撤退を認めようとしない人々がいる。頭の固い人たちだ。現実を直視できないという意味でも、三流学者だ。
 高橋洋一氏などは、「数学で経済がすべて理解できる」と主張している奇妙な御仁だ。数学で経済が理解できるなら、経済学は不要だろうに。自分の言っていることの意味すら理解できない人々が、アベノヨイショを形成している。もっとも、御大浜田氏も、「(政策の正しさは)理論的・数学的に証明されているんですよ」というのが口癖だが。
 一つ言っておけば、経済学の世界には、数学にたいする根深いコンプレックスが存在する。経済学が科学たり得ないのは、数学を利用しないからだと単純に考えている経済学者は多い。物理学のように数学を使えば科学的厳密性が保証されるから、経済現象を数式や数学的記述で分析できれば科学になると考える単純思考が、経済学の世界に蔓延している。
 このような歪んだ経済学像が形成された背景には、20世紀を代表するハンガリー人数学者ノイマンの影響が大きい。1930年代の初めに経済学の市場均衡問題に興味を抱いたノイマンは、経済学で使用されている数学が初等数学のレベルで、経済学者は現代数学に無知であることを辛辣に批判した。1930年代から1940年代にかけて、ノイマンは市場均衡解の存在証明やゲーム理論の構築で現代数学的手法の有効性を示したが、当時の経済学者はノイマンの論文や著書を理解できなかった。ノイマンの論文や著書が解読され始めたのは第二次世界大戦後で、主として数学から経済学へ転身した学者がこの研究を始めた。日本では二階堂副包や宇沢弘文などの数学出身の学者の仕事がそれにあたる。ノイマン論文を解読し、ノイマンが設定した問題に数学的な別証明を与えることが戦後数理経済学の流行になった。その結果、純粋数学で大成できなかった数学者が経済数学分野に多数参入してきて、経済学の応用数学化が進行してきた。
 ところが、戦後の数理経済学者は第一級の数学者ノイマンを煙たがり、現代数理経済学がノイマンから始まったことを隠そうと躍起になってきた。その試みが奏功して、ノイマンが「トリヴィアル(つまらない)」と批判したナッシュのゲーム理論の応用分析を、現代数理経済学の出発点だと信じている若い数理経済学者は多い。現代数理経済学の「ノイマン隠し」には理由がある。ノイマンにとって経済モデルの構築は理論的余興の一つにすぎず、数学者が一生かけるに値するものとは考えていなかったからである。現代数理経済学がノイマンから始まったことを認めれば、天才数学者ノイマン1人が始めたことを何千人何万人の凡才数学者が後追いしていることを認めることになるからだ。
 経済学の応用数学化は今も続いている。だから、ここ四半世紀のノーベル経済学賞受賞理論は、部分的経済現象の応用数学的理論証明をおこなっているものばかりで、経済社会の複雑性を分析した記述的理論は受賞対象になっていない。自然科学分野や医学生理学分野のノーベル賞と違い、ノーベル経済学賞受賞の経済理論が現実問題を解決する道筋を教えてくれることはない。
 しかし、こうした経済学の応用数学化現象が、数理経済学者の理論にたいする誤った理解と傲慢を醸成している。浜田氏も、ことある度に、「金融緩和政策は理論的・数学的に証明されている」と自信満々に主張していた。自らが展開する理論モデルが現実経済とかけ離れたものであることを理解するのが、いかに難しいかを教えている。

追補:青木昌彦氏のこと

 国際的に名が知られている日本の数理経済学者は指折り数えられるほど少数である。優れた数理経済学者は自らが展開する理論と政策との間に、大きな乖離が存在することを認識しているから、自らの理論的結論を単純に経済政策に展開できるとは考えない。ところが、中途半端な数学を使うマクロ経済学理論を専攻する経済学者は、深い思慮なしに、理論的結論から政策を展開できると考える。きわめて単細胞的である。そこが優れた経済学者と凡才の経済学者の分かれ目である。
 数学出身の二階堂氏や宇沢氏の後、数理経済学の世界で名を知られた日本人経済学者は、雨宮健氏と青木昌彦氏(共にスタンフォード大学)である。雨宮健氏は国際基督教大学(ICU)出身で、スタンフォード大学助手の時代に、1セメスターだけICUで講義されたことがある。1969年秋、筆者はその講義(市場均衡解の存在証明)を受講した。
 他方、青木昌彦氏は60年安保の主流派全学連の論客で、姫岡玲治のペンネームで論陣を張った人物として知られている。東大大学院で玉野井芳郎教授のセミナールに入り、その後、ミネソタ大学大学院を修了して、スタンフォード大学で職を得た。ノイマンが編み出した分析手法はたんにゲーム理論や均衡分析のみならず、線型等式体系あるいは不等式体系で経済制度を叙述する方向へ応用された。2007年にノーベル経済学賞を受賞したハーヴィッツの業績はこの分析手法を評価されたものだが、青木氏の処女作『組織と計画の経済理論』(岩波書店、1971年、第14回日経・経済図書文化賞受賞)は、この分析手法を社会主義経済計画化の制度分析に適用したものであった。当時大学院生だった筆者がその書評に挑んだ懐かしい作品である。
 ハンガリーの経済学者コルナイが1972年にノーベル賞受賞経済学者ケネス・アローの招聘でスタンフォード大学に留学した折、青木氏の隣に研究室を得たことから、コルナイと青木氏の親交が始まった。ともに、制度学派的な分析を特徴としていたから、相互に学び合うことができたのだろう。コルナイが国際経済学連合(IEA)会長を終えた後、青木氏が2008年から2011年まで会長を務めた。
 筆者は1981年、法政大学社会学部創設35周年記念行事にハンガリーからコルナイを招聘し、講演とセミナーを組織した。宇沢氏には「不足の経済学」をめぐるセミナーの議長を担当してもらい、青木氏には京都大学でコルナイの講演会を開いてもらった。また、『コルナイ・ヤーノシュ自伝』(日本評論社、2006年)の発刊時には、日本経済新聞に長文の書評論文を出してもらった。その後、青木氏はブダペストにコルナイを訪ねられたが、会う機会はなかった。日本に戻られた後に、短期間ブダペストを訪問したこと、また次回のブダペスト訪問で是非会い旨のメイルを受け取ったが、その約束が果たされることなく、2015年夏にお亡くなりになった。
(もりた・つねお)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.