約1年半前、機内上空からハンガリーの街の灯りを初めて目にした瞬間、美しく輝く景色に魅了され希望で胸がいっぱいでした。入学式が行われた大ホールでのパイプオルガンの壮大な響き。自宅近くの教会の鐘の音で目が覚める朝。ドナウ川沿いで感じる風。「あぁ、ヨーロッパにいるんだ」と音楽を学ぶのには最高の環境に身を置けることにとても幸せを感じました。
 リスト音楽院では尊敬する3人の先生に巡り合いました。ワルツやマズルカ等の舞曲等を勉強するときには先生と一緒に踊りレッスン室を先生とクルクル廻るなど、熱く情熱的な授業に驚きましたが、毎回楽しさと感動との連続でした。たった1音も無駄な音は作らないこと、指先のコントロール、音を奏でる先に響きや音楽のスケールを強く広く想像すること、瞬時のキャラクターの変化、細部に意識をすることの重要さを教えて頂きました。
 「ピアノはオーケストラ」と言いますが、ピアノ一台で多種多様な楽器の音色を表現する為に同じ強弱記号でも音楽の背景によって変わる腕と指の使い方等の様々なテクニックの中には初めて知ったものも沢山ありました。演奏する上ではっきりとした意思を持つこと、より多くの楽器の音色を知ること、想像力を沸き立たせることはとても重要であり、それらは連日著名な音楽家の生の演奏に触れることやオペラ、バレエの鑑賞によって一層肌で感じることが出来ました。レッスンの中で先生から求められるアドヴァイスに自己の音楽表現はまだまだ足りないと落ち込むことも沢山ありましたが、目標とする表現力や想像の映像はそういったオペラやバレエが日本よりも遥かに身近にあることから、目にするもの、聴くものが私に大きな幸せとヒントを与えてくれ、音楽を豊かにしてくれました。
 生活面では1年目は何もかもが零からのスタートで多少のことで落ち込むようなことはありませんでしたが、2年目は環境にも慣れ、悪いことも重なりました。甘い環境には居られない中で自分の弱さの深い部分が見えてきました。そんな時は自分にとって優しい日本をとても遠く感じる時もありましたが振り返ればいつだって一人ではありませんでした。日々の音楽の勉強以外で私のハンガリーでの宝物となったのは多くの友人達との出逢いです。
 この地に来てからは、音楽留学生以外にも様々なジャンルの方々に出逢い、しっかりと芯を持った多くの人と沢山の時間を語り合いました。日本では出逢うことがなかったような方々からそれぞれの人生観等を聞く中でこれまでの私の価値観は大きく自由に広がっていきました。日本人のみならず、ハンガリー人や他国の人とも交流を持てたことはとても素敵なことです。一歩外に飛び出すと世界はこんなに広いのだと実感しました。現実的に海外で暮らすということはもちろん危険もあり、不便もある為に「海外は怖い」と思っていた私もここでの友人達との出逢いはそうした価値観も大きく広げてくれました。リスト音楽院の中でも友人と室内楽を組み、定期的にコンサートを行いました。お互いを理解し合いひとつの音楽を作りあげる過程の中で時に意見がぶつかるような事があっても、刺激し合い、相手を尊敬する中で共に作り上げる音楽に喜びが生まれました。
 こうして振り返り、帰国が目前に迫った今はこの地での周囲の人や景色が数カ月後に思い出となることに現実味がないのが正直なところです。我がリスト音楽院の校舎。生活の中心のなんでもない町並みや、ハンガリー料理。いつも通った夜は高いれけどお昼は安値で食べられるリストテールのランチメニュー。
 留学当初には一口も飲めなかったのに今は味が解るようになったパーリンカ。そんな瞬間全てに多くの友人が居た事、2年の間、落ち込んだ時にいつも受け止めてくれる存在があって帰国を迎えられることに心から感謝致します。留学以前には音楽を続けていく自信を失いかけた数年間もありましたが、どんな時も最悪だと思った状況をも必ず最高のチャンスに変えていけるとの確信を持って進んできました。それは、これまでも現在も尊敬する師匠と良き友人、大きな目的を持って語り合える同志、私の傍に居てくれる大切な存在に恵まれ支えられてきたお陰だと思っています。日本に帰ってもこの地で築いた友情と私の確信は変わりません。
 「苦悩を突き抜けて歓喜にいたれ」。ベートーヴェンが残した私の勇気の言葉です。大好きなハンガリーの地の大好きな景色がいつまでも美しく永遠のドナウの真珠でありますように。