一日ごとに秋の色が濃くなってきたころですが、つい最近一年間の日本留学から帰ってきた僕には早速大学の新学期が始まりました。帰国してすぐに授業を受けるのは精神的にも肉体的にも負担が掛かりますが、のんびり過ごす時間もなく相変わらず元気で生活しています。こんな時、ELTE大学で「ハンガリー新聞に見られる日本文化」というコースを受講し始め、ある授業で次のような質問が出ました。新聞記事から見られる日本人の考え方を中心にした話のなか、「ハンガリー人と日本人の死生観はどう違いますか。」と教授に聞かれました。昨年、留学していた京都大学で勉強したことが直ぐに思い浮かびましたが、決して一言で答えられる質問ではありませんでした。
 遠からずハロウィーンや死者の日といったカトリック教の記念日を迎えますので、この場をお借りして日本人とハンガリー人の死生観について少しご紹介したいと思います。読者の皆様もご存知の通り、ハンガリーの国教はキリスト教です。10月31日のハロウィンの後、諸聖人の日の翌日にあたる11月2日は死者の日です。カトリック教会では、地方によって異なる習慣が未だ残っており、死者の日にすべての死者の魂のために祈りを捧げます。ハンガリーの一般的な家庭では、11月2日になると、家族や親戚の墓を訪ね、花などを飾り、点火した蝋燭を墓の上に配置します。しかしながら、死者の日はあくまでも永眠者を記念する日であり、親類縁者が亡くなった直後に行われる儀式ではありません。
 日本では「お通夜」という儀式が葬儀前夜に行われます。お通夜では、遺族の誰かが夜明けまで灯明や線香の火を絶やさないように祈りを続けるという、魔除けの機能を持った慣習があります。その後、葬儀や火葬が行われますが、お通夜の終了後に初めて死を認めるという考え方は日本人の特殊な死生観を表しています。
 一方、ハンガリーはどうでしょうか。近年では行われる頻度が減少している傾向がありますが、実はキリスト教でもお通夜と似ている慣習があります。西方教会では「前夜式」や「通夜式」などと呼ばれており、正教会では「パニヒダ」として浸透しています。日本のお通夜と同様、パニヒダでも蝋燭を捧げ、信徒が永眠者のために祈りを唱えます。しかし、キリスト教では、通夜式よりも葬儀の方が重視され、前者の方は段々行われなくなっています。つまり、西洋と極東のお通夜はいくつか共通点を持っているとは言え、その機能や役割は完全に一致するとは言い切れません。
 また、「死」自体はどう見られるでしょうか。偶然、つい先日これをテーマにしたある文学作品を読み、関心を持ちました。それは志賀直哉の「城の崎にて」という名作ですが、そこで描かれていた世界は既読したハンガリーの文学のものとは全く異なる印象を残しました。「城の崎にて」では、合わせて三つの場面で死生観が垣間見られる部分が現れ、代表的私小説作家として知られている著者自身だと考えられる主人公に大きな影響を与えています。お読みになった読者にはお分かりだと思いますが、上記の三つの場面は三匹の動物(蜂、鼠、いもり)の死に基づいたシーンです。この三つの場面で様々な体験をした主人公を通して日本の死生観を捉えることができます。ここでは、作品を詳しく考察するスペースがないため話を省きますが、要するに「城の崎にて」の主人公の「自分」はそれぞれ異なる状況の場面で死と生を経験し、そしてそれらの反映によって、彼の死に対する見方は飛躍的な変化を遂げました。身近に死を感じ、生命の真の大切さに目覚めるのは人間の本来の性質です。
 昨年の東日本大震災の時、遺体が発見されずに日本の慣習として未だ強く残っているお通夜が出来なかったという例は少なくないでしょう。日本人の多くの方の死に対する見方が変化したに違いないと察します。しかし、これは決して日本人だけに言えることではありません。世界の各地で多くの人々が悲劇に驚愕し、被災により亡くなった方々のために祈りを唱えていたのです。今年も死者の日が来たら、家族や親戚の魂だけでなく、東北で亡くなった方々の魂のためにも蝋燭を灯し、ハンガリー人のみんなで祈りをお送りしたいと思います。

(ジゴー・アンドラーシュ)