1956年 10月 23日に勃発したハンガリー動乱は、「スターリン主義に侵されたソ連型社会主義」への人民蜂起であった。ブダペストで突発的に起きた騒乱にたいし、ソ連共産党は性急にも軍事制圧を決めた。 10月 24日に 3万人を超えるソ連軍大部隊がハンガリーの主要都市を制圧し、ユーゴスラヴィアとオーストリア国境にも部隊を配置した。
 10月 24日のブダペスト市内では、ハンガリー軍駐屯地から武器を奪取した市民と市内の要衝で睨みを利かせるソ連軍戦車との間で激しい戦闘が繰り広げられた。ソ連共産党幹部会へのスースロフ報告では、ハンガリー側の死亡者 350名、負傷者 3,000名、ソ連軍の死亡者 600名と報告された。双方共に、甚大な人的犠牲を生み出した。
 私はここ 15年ほど、断続的にハンガリー動乱の全容を知るための資料収集を行ってきた。体制転換 30年を区切る意味で、総括的な社会経済分析を準備しているが、その中の 1章として、戦後の東欧における「人民民主主義革命」の成立からハンガリー動乱勃発までのプロセスを詳細に記すことにした。東欧社会主義成立の歴史を辿ることで、その崩壊への必然性が見えるからである。
資料を読み解く中で、日本ではいまだ知られていない数多くの事実を知ることになった。体制転換によって、実に様々な文書や資料が公開され、それにもとづく研究が次々と公表されてきた。その数は数百をはるかに超える。とくにソ連側の機密資料が公開されことが、新たな研究成果をもたらした。
 
ロシアから新資料
 ソ連崩壊と東欧の体制転換によって、 1990年代からハンガリー動乱時の様々な機密文書が公開されるようになった。イェルツィン大統領が 1992年暮れに、ハンガリー大統領に手渡した当時の機密文書は、動乱前の 1956年4月のアンドロポフの極秘電報(ソ連共産党幹部会宛)から始まって、動乱時におけるソ連要人の報告、動乱以後のナジ首相グループの処遇、ユーゴスラヴィアとの関係をめぐる報告と決定( 1958年7月まで)が含まれている。また、ソ連共産党幹部会討議の覚書である「マリン覚書」(Malin Note)のうち、 1956年のポーランド情勢とハンガリー動乱にかんする討議部分が、 1996年に公開された。これは中央委員会事務局長 Valdimir Nyikiforovics Malinが個人的なメモとして走り書きしたものである。
 これらの全容をここで記すことはできないが、 1956年 10月 23日から 11月 4日のソ連軍第二次制圧にいたる過程やナジ・イムレ首相グループのユーゴスラヴィア大使館への亡命・拘束は、これらの資料からほぼ全容が明らかになっている。
1956年 10月中旬、ポーランドのポズナン暴動勃発に際して、フルシチョフはソ連軍をポーランド国境に移動し、軍事介入の構えを見せた。スターリン批判の行きすぎによる東欧社会主義の不安定化の責任を追及するソ連共産党幹部会保守派を抑え込むために、フルシチョフは強硬姿勢を見せたのである。最終的に、ゴムルカの書記長復帰で事態を収めたポーランドへの介入を断念した。フルシチョフ自身、軍事介入は簡単だが、その後の平定は難しいという現実的判断をもっていた。
 興味深いことに、中国共産党は武力介入に反対し、ポーランドとソ連の仲介役を果たすべく、劉少奇一行をモスクワ経由でワルシャワに派遣しようとした。しかし、モスクワに到着した一行は、ポーランド情勢よりハンガリー情勢が緊迫していることを知り、モスクワに留まってソ連共産党と協議を続けることになった。
 10月 23日に勃発した動乱にたいし、ソ連共産党は即座に軍事制圧を行ったが、中国共産党とユーゴスラヴィア共産主義者同盟は、このソ連の軍事行動を厳しく批判した。ソ連共産党幹部会においても、ハンガリー情勢に詳しいミコヤンは一貫して軍事介入に反対した。あまりに先走った行動だった。突然のソ連軍進駐にたいして、ハンガリー国民の怒りは頂点に達し、無用な人的犠牲を招いた。ソ連共産党幹部会は急ぎすぎた判断を悔い、 10月 28日にいったん軍を駐屯地に引き揚げさせた。
 他方、ハンガリーの共産党幹部はソ連に亡命し、新たに首相の座に就いたナジ・イムレはソ連軍のハンガリーからの撤退とワルシャワ条約機構からの脱退を宣言することになった。ソ連共産党幹部会もまた、中国共産党の提案を聞き入れ、ワルシャワ条約機構会議の招集と社会主義諸国からのソ連軍撤退を議論することに同意した。少なくとも、 10月 30日夕方まで、ソ連共産党幹部会はこのラインで一致していた。
 ところが、フルシチョフと断続的な協議を続けていた劉少奇は、毛沢東との電話連絡を取りながら、新たな方針をフルシチョフに伝えた。 10月 30日夕刻である。ハンガリーが社会主義陣営から離脱することは阻止されなければならない。そのために、軍事力行使を容認するという方針転換である。ユーゴスラヴィア大統領ティトーも、この時点でソ連の軍事介入を容認した。 30日夜に開催されたソ連共産党幹部会には劉少奇も加わり、中国共産党は「プロレタリア国際主義の立場からソ連軍のブダペストおよびハンガリー全土の駐留を支持する」と宣言し、ソ連共産党幹部会はハンガリーの再度の軍事制圧を決定した。
 10月 31日、フルシチョフはヨーロッパの社会主義国首脳の合意を得る行脚に出かけた。フルシチョフが出発する直前にブダペストから戻ったミコヤンは、 30日夜の幹部会決定を批判し、 30日午前の決定に戻すべきだと激しく詰め寄り、ハンガリーに「 10.15日の猶予を与えるべきだと」主張した。しかし、フルシチョフはマレンコフを従えて、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラヴィアへの行脚にでかけた。
 
ブリオニ合意と破棄
 11月 1日、ナジ首相とともに政府を構成したカーダールは、行方が分からなくなった。その日の夜にカーダールの演説がラジオから流されたが、その時にはカーダールはハンガリーにいなかった。この日の午前、アンドロポフソ連大使公邸に呼ばれたカーダールとミュニッヒ・フェレンツは、そのままソ連の軍用機でモスクワに連行されたのである。そして、翌日のソ連共産幹部会に立たされることになった。そのカーダールが傀儡政権首班としてソ連の戦車に乗ってハンガリーに戻ったのが、 11月 4日である。
 11月 2日、飛行機と船を乗り継いでユーゴスラヴィアのブリオニ島にやってきたフルシチョフは、夜 7時から明け方までティトー大統領と協議を続けた。ハンガリー武力制圧に理解を求める会談だった。ティトーは軍事制圧を容認したが、臨時政府首班にソ連滞在が長いミュニッヒではなく、国内活動派のカーダールを据えるべきだと主張した。また、ナジ政府首脳のユーゴスラヴィア亡命を提案した。
 3日午後にクレムリンに戻ったフルシチョフは、保守派が推すミュニッヒ・フェレンツではなく、カーダールを首班に据えることを主張し、逡巡するカーダールを説得して議論を取りまとめた。これによって、すべての手筈が整えられ、ソ連は 11月 4日、ハンガリーを軍事制圧する準備に入ったのである。
 4日未明からソ連軍は大部隊をハンガリー全土に展開し、ブダペストを制圧した。ここでも甚大な人的犠牲が生まれた。ソ連軍の侵攻が始まる前に、ナジ政府を構成した人々は、ナジ首相とともに英雄広場角にあるユーゴスラヴィア大使館に亡命した。客室が 3部屋しかないところに、政府要人やその家族 40名余が身を寄せた。
 11月中旬、軍事制圧に自信をもったソ連は、ティトーとのブリオニ合意を破り、「平和的に自宅に戻す」という虚偽情報でナジ首相グループをユーゴスラヴィア大使館からおびきだした。大使館に横付けされたバスはソ連軍が手配したものだった。彼ら一行を乗せたバスはソ連軍基地に到着し、そこから飛行機でソ連の意のままに動くルーマニアへ移動させ幽閉したのである。半年後の 1957年 4月にルーマニアからハンガリーに移送されたナジ・グループに、紆余曲折を経て、最終的に 1958年 6月 15日に判決が下った。死刑判決を受けたナジ首相は、同じく死刑判決を受けた軍人マリーテル・パールと元党機関紙編集者ギメシュ・ミクローシュとともに翌未明、絞首刑に処せられた。獄中死したロションツ・ゲーザ(元党機関紙編集者)を含めた4名の名誉回復の再埋葬式は、 1989年 6月 16日に行われた。
 1988年に書記長を解任され、 1989年 5月に中央委員会議長からも解任されたカーダールは、ナジ首相他 3名の再埋葬式が執り行われてから 3週間後の 7月 6日に他界した。私はたまたまこの日の朝に、ハンガリー社会主義労働者党本部でニュルシュ・レジュー委員長と会う予定になっていて、その場でカーダール死去が伝えられたのを覚えている。
 晩年のカーダールは自らが手を下したナジ・イムレと、 1949年にスターリン=ラーコシの奸計に陥り処刑されたライク・ラスロー(当時の政治局員で外務大臣)の亡霊に悩まされていたと言われている。口外しなかったが、この二人の死に深くかかわったという記憶は、カーダールの脳裏から離れることがなかったのだろう。ハンガリー動乱を頂点とする戦後東欧社会主義の歴史は、ハンガリーにとって、不幸な出来事が連鎖した悲痛な 40年であった。