ハンガリーに来て4年。赴任の内示があった時、ハンガリーは何処にあるのか見当がつかなかった。もちろん、国の名前は知っていたが、地理的位置関係が分からず、40年前の最新高等地図帳を広げた。地図帳にはたくさんの赤丸・黒丸が付けてある。ハンガリー、ブダペストに黒丸がはっきりついている。周りの国はと見ると、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなど5つの国に囲まれている。それから時が流れ、今では7つの国に囲まれている。感覚的には東欧と思ったが、こちらに来て中欧という表現を知った。確かにチェコなどは欧州諸国の中央に位置している。南の方には争いの火種となってきたバルカン半島がある。そして、翼に乗ってハンガリーへ向かった。
 ハンガリーはドナウ河で縦断されて、東西に分かれる。首都ブダペストはそのドナウを挟んで西がブダ、東がペスト。合わせてブダペスト。二つの町が統合されたとは知らなかった。ハンガリー語で、「ブダペシュト」と発音する。「青き美しき」と期待したドナウ河には裏切られたが、河幅が広く水量の多い雄大な流れである。冬には河一面が凍りつく程の寒さに見舞われる時があり、春には上流の雪どけ水による氾濫が襲ってくる。
 このドナウを挟んで多くの歴史的建物が林立する。戦争でダメージを受けたが、古き良き橋梁や建物が修復・復元されながら残っている。とりわけ、ゴシック様式とみられる国会議事堂は見事だ。近くから見ても、遠くから見ても、またライトアップで見ても良い。堂内も絢爛豪華。まだ赴任して間もない頃、議事堂の館内ツアーに加わった。案内の英語が聞きづらく、初代イシュトバン王の王冠付近の絵や像をカメラで撮っていたら、守衛の強持てのお兄さん達に連れて行かれそうになった。多くの観光客があちこちで写真取っていたから構わないと思っていたが、この場所はいけなかったらしい。丁重に詫びて許してもらったが、どの美術館や博物館でも写真を撮って良い所と駄目な所、さらにお金を払えば良い所もあることに驚いた。この王冠の十字架が傾いている。戴冠式の際に既に曲がっていたと言われているが、曲がった理由や曲がり角度などを詳細に調査し、どういう意味合いを持つのかなどを歴史家たちが分析しているのが面白い。私などは単に運搬中に曲げてしまったと思うのだが、貴重な遺品になると一つの謎となる。
 ドナウ川を見下ろすゲッレールトの丘から見る夜景は実に素晴らしい。鎖橋や王宮などがライトアップされ、光り輝くペストの町は何回見ても感動する。この夜景は客人や出張者には欠かせない。ここで1回失敗している。普段は無料の観光地であるが、たまたまその日はゲートで行く手が封鎖されており、脇から入ろうとしたらハンガリー語で何か言ってくる。お金を払ってやっと通行できた。後で同僚に聞いてもお金なんか取られたことなどないという。この時はやはりハンガリー語を勉強しなければならないと思ったものだ(その後、2年ほど勉強したが挫折した)。
 ブダペストの中心部は古き欧州の臭いを感じさせるが、郊外も捨てたものではない。ハンガリーは黄色がよく似合う。春になると、郊外の畑には菜の花が、夏が近づいてくるとヒマワリが一面に花開く。爽快な夏の日に咲くヒマワリ畑は心を和ませてくれる。そのヒマワリが枯れ、種が黒ずんでくると、もう夏の終わり。
 我が社はブダペストから65kmほど東に離れたところにある。毎日、小一時間ほどのドライブで会社へ向かう。小さな村々を通り抜けるのだが、家々や道ばたには季節によってさまざまな花が咲き誇っている。春にはチェリーの赤紫やアーモンドの白い花が綺麗だ。ところが、ハンガリーの同僚たちに、草花のことを聞いても良く分からない。せっかくの話題を共有できないのは残念至極だった。
 少々長い通勤道中でいろいろな事に出くわした。田舎道のためか、道路には車にはねられた犬や猫だけでなく、狐や孔雀や雉などの死骸に出会う。誰も片付けないから、何度も車に轢かれ、腐ったままの状態で放置され、やがて風化していく。二度ほど雀の大群にぶつかった。雀は私の車をよけることなくぶつかり、バックミラーから路上で羽をバタバタさせている様子が見えた。可愛そうなことをした。冬になると、鹿が飛び出してくる。これは大きな事故のもとになる。2匹が次々と飛び出してきて、間一髪で避けたことがある。同僚たちも、一冬に何度か鹿との接触事故を起こす。車のダメージも小さくない。
 田舎道ではなぜか車の事故が多い。「なぜ、こんな所で」と思う場所で良く見かけた。それも日本ではあまり見かけないような横転事故だ。市街地を過ぎると、制限速度が90kmになる。狭い田舎道でこのスピードだから、少し間違うと大事故になる。私も一度、サイドミラーを一瞬のうちにもぎ取られた経験がある。瞬時の事でミラーとミラーが激しくぶつかる衝撃音だけが聞こえた。田舎道の舗装状態が悪いから、端を避けてセンターライン近くを走るので、気を付けなければならない。
 11月になると霧が出る。会社からの帰宅時に、暗い夜道で霧が発生すると怖い。街灯もない曲がりくねった丘陵地帯を時速30kmほどで走る。明かりは車のライトだけ。寒く白い闇の中、突然、道路脇に自転車や人が現れる。冷や汗をかきながら、ハンドルを握り占める。日本ではめったに使わないフォグランプの効用を知らされた。当地では必需品だ。
 怖い事ばかりでない。厳寒の朝、山道の枯れ木に氷が華をさかせる。樹氷と呼ぶのだろうか。朝陽に照らされ、光輝くその情景は日本ではめったに見られない。自然の美を感じる瞬間であり、ハンガリーで初めて見たものだ。
ハンガリーの丘陵地帯ではぶどう畑を目にする。ハンガリーはワインの名産地。赤はとくに美味しい。本当に良く飲んだ。フランスの客人がよく来るのでハンガリーワインを賞味して貰う。「まあまあ」といった具合で、やはりフランスワインが一番だと思っているらしい。先般、ロマネのワインを頂いたが、マラティンスキー2003の方が旨い。
 トカイの貴腐ワインは世界的に有名であるが、あの甘さに評する弁はない。このワインと一緒に食するものにハンガリー名産のフォアグラがある。いろいろな料理法はあるが、フォアグラはソティーに限る、口に入れた時の味わいは何ともいえない。
 ハンガリー料理といえばグヤーシュ。これは野菜と肉が煮込まれたスープ。パプリカで味付けされているが、どこのお店で食べてもそれぞれに店の味がある。また、スペインのイベリコ豚はハムなどで有名だが、同じの系統のハンガリー産マンガリッツァ豚のしゃぶしゃぶやすき焼きは実に旨い。
こうして慣れ親しんだハンガリーともお別れする時がきた。なんとも寂しい限りだ。ヴィソントラターシュラ・ハンガリー。