気が付くとハンガリーに来て1年半が経った。ここの前は日本、そしてその前はスウェーデンに5年住んでいた。そこ、スウェーデンで娘の悠利香、息子の怜は生まれ、現在、悠利香は5年生、怜は3年生になった。悠利香は補習校で6年生、怜は3年生のクラスに通っている。
 ハンガリーへ来るにあたり学校はアメリカンと決めていたので、補習校へ通う事は初めから考えていた。しかし、最初「親の運営が成り立っている学校」という事を聞き、正直行かせる価値のあるものかどうか考えさせられた。「行かないよりはマシ」、そんな程度でしか考えていなかった。子供たちが「行きたくない」と言ったらいつでもやめさせようとすら思っていた。
 しかし、いつまでたっても子供から「辞めたい」と言って来ない。親から「辞めないの?」と聞くのもおかしな話なのでそのまま行かせることにした。「補習校、どう?」といつ聞いても「楽しい!」という答え。どうやら休み時間に上級生のお兄さんやお姉さんが下の子も一緒に遊んでくれるのが楽しいらしい。これは縦割り教育ではないアメリカンでは経験のできないこと。親としてはそれだけでも行っている価値がある、とも思うのだが、勉強のことが気にならないと言えばうそになる。
 悠利香は3年生の3学期にハンガリーへ来た。その当時、残念ながら3年生のクラスがなく、4年生のクラスに入るしかなかった。3年生までの勉強は一応日本の2学期までに殆ど終ってきたので問題はない。だが、4年生の国語が全くの独学でするしかなく、補習校の5年生の勉強と並行してやっていた。一時期かなりきついものがあり「補習校、辞めたい」と漏らした事もあったが、最終的には「やっぱりがんばる!」と今までやってきた。なぜここまでして行きたいのだろうか?
 悠利香はいつか日本に帰り、日本の学校でついていくためにも行った方がいいに違いない。本人にも多少そういう意識があるのだろう。けど、補習校に来ている二重国籍の子たちはなぜ補習校に来ているのだろうか?土曜日の朝、やっと平日の勉強や習い事に解放された、と思ったらまた補習校で日本語の勉強。親もまた大変である。普段仕事を持っている方がほとんど。そんな中、バスや電車、中には車で1時間もかけて通っている。去年までなんとスロバキアから通っている子もいた。そこまでしてなぜ通うのだろうか?
 私は最初、その子たちにとって補習校はただの日本語教室。習い事の一つくらいのものだろうと思っていた。しかし、彼らの書く作文を読み、授業参観を見るにつれ次第にそれは大きな間違いだってことに気づかされた。彼らはそんな軽い気持ちで補習校に来ているわけではない。日本人としてのプライドがあるからこそ来ているのだと。
 きっと彼らは普段全くのハンガリー人として生活しているのだろうと思う。それはそれで違和感がないものだとも思う。しかし、いくら生活がハンガリー人と同じであっても、家でハンガリー語しか話していなくても半分は日本人の血が通っているわけである。その部分は無視できない。しっかり存在しているわけである。それなのに日本語もしゃべれない、文化も習慣も全く知らない、ということは彼らにある日本人としてのアイデンティティが空白のものとなる。その部分も埋まらない限り100%の自分とは感じないものなのではないか。
 これは悠利香たちにも感じたことがある。アメリカンには毎日楽しく通っている。悠利香は特に英語を話す事が好きでリアクションも性格も段々「アメリカン」になってきた。きっと彼女の中ではそれでいいと思っていると思う。けど、何かと「友達来るからお寿司作って」や「ゆかたを着たい」と日本のアピールをしたがる。これはきっと彼女に日本人としてのプライドがあり、どんなに「アメリカン」にあこがれそれがいいと思ってもやはり自分は日本人なのだという誇りは保っておきたいものなのだと思う。
 補習校に通う二重国籍の彼らのひたむきさに何度か胸を打たれたことがある。普段見る事も使うこともない漢字を何度も書きうつしては覚え、たどたどしい日本語で一生懸命意見を言おうとしている。きっと大人が思っている以上に大変な努力をしているものだと思う。その苦労を感じ、うちの子たちも「自分たちもがんばろう!」と思ってくれるだけで大きな価値のあるもののように思う。
 そういう彼らを見るにつれ補習校の見方も変わってきた。そこはただ日本語を教えに来てもらう場ではなく日本人であることを改めて認識させてくれる場所であること。そして、そのことが英語がしゃべれる、海外生活の経験があることより何より大事であること。このことはアメリカンに通ううちの子たちですら忘れてしまいがちなこと。オープンな雰囲気。個人主義。意見ははっきり言う。いろいろと日本人として憧れる部分はたくさんあるが、その反面、まとまりがない、自分勝手が多い、意見をはっきり言う事で衝突も多い、と必ずしもいいことばかりではない。「遠慮」という言葉も海外ではマイナスの意味を持つが、私は必ずしも悪い事ではなく、ある意味日本人の美しい部分にすら思っている。いつも自分の意見をぶつけることができる子より相手の気持ちや立場を察し気づかいのできる、日本人らしい「遠慮」のわかる子になって欲しいと思う。
 今、補習校は人数もどんどん増え、大きくなろうとしている。これも自分の子が通う親たちでやろうとしていること。しかし、今は自分の子のためだけではなくここハンガリーにいる日本人の子全てのためにがんばって働いてくれている。いつも頭の上がらない気持ちでいっぱいである。うちの子たちがここ、緑の丘補習校に通えた経験はハンガリー生活において大きなプラスになると思う。子供たちが「辞めたくない」と言い続けられるような学校にしてきた運営委員会や先生方、そして生徒のみなさんにただただ感謝するばかりである。

(しもむら・あきこ)