日本の大学ではファゴットを主専攻として勉強していた。指揮の勉強がしたいと相談した高校生の僕に、指揮科の先生は、「大学に入ったら指揮も勉強出来るから、それよりはオーケストラの楽器を勉強しなさい。室内楽とオーケストラを沢山経験することが、指揮者になるために大事なことなんだよ」とオーケストラの楽器を学ぶことを薦めた。
 その後、ファゴットの学生として入学し、在学中は仲間達とオーケストラを作り、様々な場所で演奏を行った。毎日仲間と夜遅くまで練習し、それから誰かの家で音楽について語り合い、そしてまた朝から学校という生活を送った。その頃は、とにかく好奇心だけで行動していた。とにかく毎日が楽しくてしょうがなかった。
 卒業後、各地のオーケストラやオペラの現場で指揮者としての修行させて頂き、母校で助手の仕ことを始めたころから、ある疑問が頭の中でグルグル回り始めた。「指揮をするという行為は何なのか、演奏とは何なのか、そもそも音楽って何なのか、なぜ自分は音楽家を志しているのか」。それまで、ただただ「おんがく」が好きで、その気持ちだけで突っ走っていた自分から音楽がどんどん離れて行く気がした。そんな疑問が常に胸の中にありつつも、時は流れて、ついに疑問が苦しみへと変わり始めた。その時になって、日本の師匠にそのことを打ち明けた。笑顔で返って来た言葉は、「音、我を苦しめると書いて、音我苦(おんがく)。さて、お前はこれから本当の意味での音を楽しむ音楽が出来るまで、音楽と自分自身と向き合っていかなきゃいけない」。そしてさらにもう一言、「一度外国を見て来てごらん!必ず自分自身と向き合うことになるから」。どこへ行きなさいとは言わなかった。興味のある国はたくさんあったが、しかし、どうしても行きたかった国が一つだけあった。それがハンガリーだった。
 早速、リスト音楽院を調べ、今の師匠であるLigeti András先生にコンタクトを取り、1ヶ月の短期留学をすることにした。渡航の2週間前に先生から出された課題は、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲、モーツァルトの交響曲第40番、そしてコダーイのハンガリー民謡「孔雀による変奏曲」だった。しかも、「暗譜で」。初めての海外一人旅で不安、もあったが、その日からハンガリーに到着するまで、ひたすらスコアを読み込んでことを覚えている。
 到着の翌日、Ligeti先生と対面した。しかし挨拶から何となく冷たい。外国人というと、初対面は笑顔でハローッ!!と熱い握手をしてくるイメージがあったのだが。挨拶もそこそこに、お互いテーブルに座り、さっそくどれだけ勉強してきたかのチェックが始まった(先生は正面に座っているが、僕に対して斜め70°を向いている)。
 「譜面は開くな。今から尋ねることに何も見ず答えなさ。11小節目にメロディーを演奏する楽器は?」、「そのメロディーのクレッシェンドは何拍目から始まる?」という具合に、30分ひたすらブラームスの楽譜についての質疑応答が繰り広げられた。その間、だんだん先生が僕に対して正面を向いてくれるようになった。そして最後に、「ありがとう、出した質問にここまで答えたのは今まで5人くらいだ」と言ってくださった。そこから、どの様に譜面を読み込み、暗譜をすることがなぜ大切なのかを教えてくれた。
 いよいよ、指揮の実技レッスンが始まる。ピアニストがオーケストラの作品をピアノで演奏し、それをオーケストラとして指揮をする。初日はブラームス。あっという間に約2時間のレッスンが終わり、最後に「(先生)OK、じゃあ次回までにストラヴィンスキーの「春の祭典」を準備して来るように」、「(僕)えっっ!? 先生、モーツァルトとコダーイ?」「(先生)ストラヴィンスキーをやろう、その後バルトークの舞踏組曲だ」。両曲共に指揮のテクニックを存分に駆使する難曲である。この様に、今でも先生は、ニヤッとした顔をしながら僕を試すことがよくある。先生なりのやる気を起こさせる方法なのである。

 その後、Ligeti先生とハンガリーで僕のサポートをしてくださっている方々のおかげで、指揮科初のフルタイム留学生としてリスト音楽院大学院に入学することが出来た。当初は、「ゆっくり風景を見て、本を読んで、各地を旅行しながらその文化に触れて」、そんな留学生活を思い描いていた。しかし、現実は週に2回の指揮レッスン、ピアノ、スコア・リーディング、合唱指揮、オペラ・コレペティトゥーア(伴奏法)、声楽、打楽器、そして各講義、これが指揮科に与えられた必修科目だった。各先生方は常に本気でレッスンしてくださり、本気で課題を与えて、当然こちらの本気を求めてくる。準備をし、少しでも先生方の伝えてくださることに近付こうと必死になる毎日が続いている。
 指揮科ではL i g e t i 先生を含め3人の先生から学んでいる。Gál Tamás先生は現在ミシュコルツ交響楽団の指揮者をされていて、その作品に適したテンポと深みを自然と創り出すことの出来る先生。そして、Medveczky Ádám先生はハンガリー国立歌劇場の指揮者でもあり、温かな人柄の中に音楽家として生きる厳しさを行動で教えてくださる先生。同時に、オペラ・コレペティトゥーアの指導もしてくださっている。これは劇場で働く指揮者が最初に通る道で、オペラのボーカル・スコアを自分で弾きながら歌詞を歌い、歌手を指揮し稽古をつけるという、一人で何役もこなす能力を身に付けるレッスンで、非常にやりがいがある。ハンガリーでの大きな経験として、2015年2月25日にリスト音楽院の仲間たちとオーケストラを作り、ショルティ・ホールにてコンサートを行ったことがある。リスト音楽院とジャパン・ファンデーションのバックアップの下、メンバー集めから自分たちでの手作りで準備したコンサートで、1夜で4つの協奏曲を指揮させて頂いた。日本でも手作りのコンサートは行ってきたが、5ヶ国の様々な考えを持つメンバー達を集めた企画は、不安もあった。しかし、入念な準備とお互い尊重し合った密なコミュニケーションのお陰で、僕もメンバーも多くのことを学び、会場も温かな雰囲気の中で演奏会を終えることができた。
 様々な課題にチャレンジしていく中で気付いたことは、自分の「強み」と「弱み」をしっかり把握するということだった。自分をよく理解する。それは厳しい環境に身を置くことによって、正直に自分自身と向き合うことで初めて出来ること。弱い部分を乗り越えて行くためには努力と勇気が必要で、過去の経験がそれを助けてくれるのだと感じた。そこから育まれた自分の人間性が自分の音楽性となると思う。
 ところで、何故どうしても行きたい国がハンガリーだったのか、ハンガリーとの最初の出会いについて書きたいと思う。それは中学生の時のちょっとしたミスから始まった。
 当時、日曜洋画劇場という洋画を放映する番組があった。その日は映画「ダイ・ハード2」、次の日にゆっくり見るつもりで録画予約をした。翌日、ワクワクした気分で、録画したはずのビデオを再生したら、思いがけないものが録画されていた。「ハンガリー国立ブダペスト・オペレッタ劇場日本公演」。なんだこりゃ! 前日の新聞を見て驚いた。僕は間違えて「日曜洋画劇場」でなく、教育テレビで放映されていた「芸術劇場」という音楽や舞台公演を放映する番組を録画してしまったのである。自分の凡ミスに腹立たしさすら覚えたが、聞こえてくる序曲にすぐに心を奪われた。エメリッヒ・カールマン作曲(ハンガリー名はKálmánImre) 喜歌劇「チャールダーシュの女王」だった。これが僕のハンガリーと、そしてハンガリーに憧れを抱くきっかけとなった作品である。ハンガリーの情熱的なチャールダーシュとウィーンの甘いワルツなど、ハンガリーとオーストリアのエッセンスを見事に融合させた音楽。ドイツ語での上演が一般的なオペレッタ(喜歌劇)作品を自国の誇りを持ってハンガリー語で上演しているブダペスト・オペレッタ劇場。どこまでも聴衆を楽しませようとする舞台に釘付けになった。
 それから間もなく、日本で唯一発売されていたブダペスト・オペレッタ劇場のCDを手に入れることが出来た。演目は同じくハンガリー生まれの大オペレッタ作曲家フランツ・レハール(Lehár Franz)の傑作、「メリー・ウィドゥ」だった。ハンガリー語で収録されていたこのCDを、中学・高校の登下校時、毎日聴いていた。もちろんハンガリー語は何を言っているか分からないが、何故か温かみを感じていた。このCDの演奏を指揮していたのが何と日本人であった。現在、ソルノク市立交響楽団の音楽監督として活躍されている井崎正浩氏であった。氏は日本人として初めてブダペスト・オペレッタ劇場に招かれて指揮をされていた方で、僕にとって当時から憧れの人だった。それから約10年後、ある偶然の誘いにより、井崎先生が音楽監督を務める日本のオーケストラで働かせて頂くことになり、不思議な縁を感じ、嬉しい気持ちであった。
 今年6月18日にディプロマ・コンサートを行い、リスト音楽院の指揮科を卒業予定である。現在は、ブダペスト・オペレッタ劇場でリハーサルや本番を見学し、どの様に舞台が作られていくのかを学ばせて頂いている。今後もこのオペレッタの本場の地で多くの素晴らしい作品を研究し、いつか上演に携われるよう、語学も含め必要な能力を引き続き向上させていきたい。オペレッタには、単なる芸術作品としてだけでなく、観る者に幸せと活力を与える力があると信じている。その魅力を伝える側になるためにも、日々自分自身と向き合い精進して行こうと思う。偉大な先輩方がそうしている様に。

(かない・としふみ リスト音楽院大学院指揮科)