仙台にある東北大学に留学することができると知ったとき、すぐ仙台市について調べてみました。仙台の地理は、西部は山々、中部は丘陵、東部と海岸は平地のようでした。その時、私はその東部の平地は全部田んぼだと思いましたが、実は違いました。留学が始まったばかりのころ、海を見に行きました。海岸に近づくと、その風景を見て分かりました。その平地は、田んぼではなく、一頃は賑やかな町であった、東日本大震災の津波に流された所でした。その日は、海がとても大らかで、雑草に隠れている家の土台の景色も平和で、いつかあんな災害が起こったのを想像できませんでした。
 先日、東北大学の学生サークルが行ったイベントに参加しました。それは2011年3月11日の東日本大震災についてもっと詳しく教えてもらえるきっかけになりました。当日のプログラムは、仙台の荒浜という海岸をきれいにしたり、地元の人たちと一緒にお昼ご飯を食べたり、旧荒浜小学校で津波について教えてもらったりすることでした。海岸でごみを拾うのは簡単なことでしたが、それだけで私も被災地の再生に少しでも手伝えたと思います。そのあと、よく荒浜にボランティアに行く地元の人たちとお昼ご飯を作って食べることもできました。その地元の人たちと一緒に海岸にある記念像で黙とうしました。記念像のほかに、大観音像もありました。この二つは大震災そして失った人々を忘れないためにあります。>  荒浜小学校では、荒浜に住んでいたおばさんに津波について教えてもらいました。被災地の平らな風景のなかで、旧荒浜小学校だけが立っています。あの日、荒浜の住人は荒浜小学校に避難して地震のあとの津波から生き残りました。コンクリでできているその校舎も、記念として残されています。災害を紹介する博物館のようなものです。あの日多くの人が避難した学校はもう学校として機能することはありませんが、記念場所そして避難場所として残っています。
 学校のなかに、津波直後に撮られた写真が掲示されていて、当日についての動画も見られます。災害の深刻さがよくわかります。波打ち際から約700メートルにあるその学校の一階は大津波に流された瓦礫によって完全に潰されました。波が三階まで届いたので、避難した住人は屋上に逃げ出さなければならなくなりました。屋上から、10メートルもの高さの津波が木々、家、人を流すのを見た避難者は、その景色を一生忘れられないそうです。  東日本大震災から6年以上経っていますが、今日も災害からの再生はまだまだです。被災地に住むことは禁止されていますが、また大津波が起こる場合に備えてダムが建てられています。災害を経験した人によると、こんな荒廃が起こったことは信じられませんでしたが、それ以来、何が起こったかを忘れないように、なるべく多くの人に大震災について伝えるようにしているそうです。なぜなら、地震と津波について知れば知るほど、多くの人が逃げられると信じているからです。私のようなヨーロッパ人には地震や津波の衝撃とそのあとの再生の大変さは想像もできないかもしれませんが、こんな災害から何度も立ち上がる日本人を尊敬します。私はこのイベントに参加させてもらって大震災のことが分かり、とても勉強になりました。
(キシュ・ハイナルカ)