日本語を勉強し始めたのは、もう6、7年前のことです。理由は特になくて、本当になぜか分かりませんでしたが、日本文化や日本語の何か見えないロープが引っ張ってくれたような感じがしました。日本関連の展覧会に行ったり、日本の歴史に関する本を読んだり、日本についての映画を見たり、和食を食べたりした時、いつも日本の伝統的な倫理観の価値体系を感じて、日本は素晴らしいと思っていました。そのころの日本についてのイメージはおそらく単に理想的なものでした。昔の武士道に従いつつ、近代のハイテクな実業界にも通用する侍という、神秘的で、幻想的な遠い世界のイメージでした。
 Keleti Nyelvek Iskolajaという語学学校で一年間半ぐらい日本語を勉強したあとで、国際交流基金の日本語講座に通い始め、結局その2年後に、初めて日本を訪れることになりました。日本政府による「Study Tour of Japan for European Youth」というプログラムのおかげで十日間を日本で過ごし、日本にもっと近づくことができました。その夢のような十日間では、東京、京都、広島などに行って、全部のことをちょっとずつ試して、頭にイメージがいっぱい渦巻くようになりました。例えば、茶道、生け花、歌舞伎、弓道、カラオケ、和太鼓、神社、お寺、城、寿司、すき焼き、お好み焼き、和菓子、もち、日本酒などを経験しました。ハンガリーに帰って来た後、日本についてもっと知りたいと思い、日本語ももっとうまく話せるようになりたかったのですが、やはり日本に住まなければ難しいと思っていました。

 僕は建築学部の学生だったので、日本の建築、特に現代的なデザインにも当然興味がありました。だから、ブダペスト技術大学を卒業した後、日本に留学するための奨学金を探していました。運命のようにすぐ文部科学省の奨学金をもらえることになり、東京に住んで東京工業大学に通えるようになりました。今年の九月に一ヶ月間、世界的に有名な藤本設計事務所でインターンシップをさせてもらったことは永久に忘れないでしょう。「東京での生活は毎日何か新しい事が発見できて本当に面白い」と聞いていましたが、これほどとは思いませんでした。日本の文化や和食も相変わらず大好きだし、自然や習慣や日常生活など、日本に住んでいなければ経験できないいろいろなことも好きになりました。一方で、美しくて親切なすばらしい日本に対して、時々にぎやか過ぎる交通や、うるさくて失礼な日本のこともわかってきました。でも、この程度のことに慣れるのは、僕が日本で得たたくさんのことを考えれば手ごろな値段だと思っています。
 東日本大震災が起こった時、僕は大学の数年前に補強工事をされたばかりのビルにある研究室にいました。だから、地震を体験したことがなかった僕でも、怖くありませんでした。僕は本当に運が良くて、感謝していました。でも、ホームステイにも参加したことがあった東北では、たくさんの人が本当に大変な状況になりました。僕は、家族を安心させるために一ヶ月帰国した後、日本に戻った時に、絶対に日本のために何かしようと決めました。日本からもらった様々な経験は僕にとってとても大切なので、機会があるなら、ささやかなお礼の印として国を再建するのを手伝おう、というつもりでした。二週間に一回、週末に宮城県の石巻でボランティア活動をやっているフランス人のグループ(在日フランス協会)があると聞き、それに参加するしかないと思いました。そのグループのメンバーはフランス人だけではありませんでした。毎回金曜日の夜に夜行バスに乗って、土曜日の朝にはもう石巻に着きました。土日には瓦礫を撤去したり、残っている家の中や庭を片付けたり、持ってきたおもちゃや家具や野菜などを配ったりしました。夜は自衛隊によって取りつけられた銭湯で体を洗った後、避難所とボランティアセンターになっていた石巻港小学校で、みんなで寝ました。センターの無料の自転車レンタルシステムのおかげで、破壊された海岸と河口を全部見て回ることができ、自然の力の恐ろしさを知りました。ボランティアには全部で3回行きましたが、僕にできたことは少なくて、中途半端だったような感じがします。
 どんなに一生懸命がんばっても、復興は長い旅になります。それに、二度と元の状態には戻れません。日本の将来にはいろいろな辛い時が来るかもしれません。でも、きっと、見えない「しめ縄」に助けられ、守られるはずです。皆このロープにつながっています。