家でじっとして3食喰べていると、日に100グラム、200グラムと増えていよいよメタボ度を高めてしまう。ゴルフもテニスもやらないので、散歩でもせねば、と思う。ところがただ歩くのではつまらない、何か目的地が欲しいというタイプである。住んでいる大田区には17の区立図書館があって、その中の三ヵ所がわが家から程遠からぬ距離だ。夫々片道大体2500歩程なので、その一つを目標にして往復すれば軽い散歩になる。図書館に行くこと自体は億劫ではない。ということで、運動も目的の図書館通いが相当の頻度で行われた。行けば借りる。借りれば読む。返しに行く。また借りる、との悪循環が三つの図書館を中心に続き、加えて外務省の図書館、都立の日比谷図書館にも出入する。テレビも時に面白いし、講演会にも行く。それで本業的な方面の本を読む時間が却って足りなくなる、という結果となってしまった。だから最近は図書館通いを減らし、この悪循環の回転速度を落としている。すると体重が増加気味となる。あとは食事の量を減らすしかない。家内はデザートを減らせと言うが、それもまた難しい。
 最近区立図書館から借りた本の中で、特に面白いと思ったのが池橋宏の『稲作渡来民』と岡田英弘の『歴史とはなにか』だった。日本の昔に興味があるのだ。

『稲作渡来民』 
 日本の国土は特に稲作に適しており、それで大いに得をした。採集、狩猟の縄文の文化に対して、水田稲作の技術を持った渡来民が入って来て、弥生時代となった。弥生の始まりは、西暦紀元前800年から前1000年くらいのことらしい。水田稲作は生産性が高い。人口が増え始め、やがては奴国や倭国のように「くに」と呼ばれるほどの集落も出来てきた。土器も祭器的、装飾的な縄文式から実用的、機能的な弥生式となる。池橋宏によれば、水田稲作は中国の長江下流域で、春秋時代には呉や越と呼ばれた地方の人々によって始まったとのことである。中国では南船北馬と言われる。中国北方の人々は、もっぱら馬で移動し、南の人は船を移動手段とするというものである。南の呉や越の人は、比較的小さな丸木舟を操って湿地帯に水田も作り、魚も取り、移動もする。彼らは、稲作の適地を求めて中国の沿岸地域を北上、山東半島に至り、さらに海上を東に進んで朝鮮に水稲をもたらした。それが朝鮮の南西部や南部を経て日本列島に及んだのだという。
 温暖多湿で浅い沼地の多い日本は、長江下流域に並ぶほどの水稲耕作の適地だった。水田を作る入り江や川筋の湿地は、縄文人は利用していなかったから棲み分けが出来た。また渡来民は大挙して押し寄せたのではなく、小人数宛小舟で徐々に入って来たので、特に争いも起こらずに縄文人との共生を始めることが出来たのだろう、と言う。日本語も縄文語がベースになったものらしい。
 勿論水稲の耕作は、長江の上流域や中国南部など他のアジアの諸地域にも伝わるが、長江の河口から東シナ海を渡って直接日本に来る経路は先ずなかったらしい。その時代長江下流域の人々は、そのような航海に耐えるほどの大きな船は使っていなかったとのことだ。

「日本書紀」
 日本という国号ができたのも、その国号の下に国が一つに纏まったのも、大体7世紀の天智天皇の頃だという。白村江で百済と倭国の軍が唐と新羅の連合軍に負けたとき、唐に攻め込まれるのを恐れ、国の体制を固める必要を感じたためである。「日本書紀」を作成させたのは、弟の天武天皇であった。『歴史とはなにか』に依れば、日本書紀は中国の「史記」に倣って、自分の王朝の起源、成立の由来、正統性を対外的、対内的に示すために組み立てられたもので、史実を記そうとしたものではない。内容は、天智、天武の兄弟とその両親という四代の天皇の事績を下敷きにしており、7世紀末から8世紀初めの建国当初の事情の記述を中心としている。例えば、神武天皇の東征は、壬申の乱の際の天武天皇自身の即位に至る経緯とほぼパラレルに描かれている。神武から応神までの天皇は実在していなかったらしい。日本書紀が史実から離れていることは、当時の人々は良く承知していたことだろう。対外的には、日本の王朝は歴史が長く、中国とほぼ同等で、中国の王朝に朝貢するような存在ではないと主張しているのだそうだ。言われてみれば、そういうことかなと思う。
 「古事記」は日本書紀の大枠の中で、やや後代に作られたものだという。そうだとしても、いろいろ面白い伝承が含まれている。史実ではなくとも、当然古代の雰囲気は伝えているだろう。長部日出雄の「古事記の真実」も読んだ。稲作民天孫族の高天原は高千穂峰あたりという説にも説得力を感じる。

多極化の世界 
 以上は趣味の方面の読書についてだったが、私の本業的な分野はといえば、今でも国際関係、国際法ということになるだろう。東西冷戦が終わってから大体20年である。イデオロギーの対立がなくなり、平和がより確かなものになったと感じて、あの時はほっとした。冷戦後の世界について、「文明の衝突だ」とか、「歴史の終わりだ」とか、「グローバル化だ」とか、いろいろ言われて来た。確かにグローバル化は大きな特徴で、国境を越えてNGOやテロリストが活動の範囲をグローバルに広げている。経済危機もグローバルに広がる。しかし結局のところ、今の世界の基調は、大国の並ぶ「多極化」にあるようだ。現在、そして近い将来の大国としては、米国、EU、ロシア、中国、インドの5ヶ国が挙げられるだろう。領土、人口、軍事力、経済力などの点で、この5国は十分パワーがあり、大国としての地位を占めている。
 この本業的な分野で最近読んだ本が、ビル・エモットの『ライヴァルズ』、ロバート・ケイガンの『歴史の再来』、池上彰の『大衝突』の3冊である。この3冊は共通して「大国間の対立、競争が今の世界、国際社会の特徴だ」と言っている。エモットの本は、「アジア三国志」という邦題のとおり、アジアの三大国、中国、インド、日本の間の競争が主要テーマとなっているし、ケイガンは、「大国のナショナリズムが戻って来た、民主国家群と専制国家群との対立が目立つ」と言う。
 池上彰の本は、その副題が示すように、主として巨大国家群と大国間の対決を平易に解説するものである。この三冊の中では、ケイガンの「歴史の再来」が一番私の考えに近いことを言っている。

日本の外交について
 本を読めば、感想も浮かぶ。この「多極世界」の中で、日本の外交はどのようなラインを取るべきだろうか。1957年に外交青書の第1号が出た。この時日本の外交三原則として、「国連中心、自由主義諸国との協調、アジアの一員の立場堅持」の三点が挙げられていた。今の時点でこの三原則を見ると、先ず国連中心ということはありえない。国連は安全保障にほとんど役に立たないからである。アジアの一員ということについては、日本は地理的にアジアに位置しているので、アジア諸国との友好な関係の維持が重要であるのは当然だ。中でも中国との友好は重要だが、これは決して容易ではないだろう。中国国民はナショナリズムが強いからである。大国間の競争、対立、特に民主国家と専制国家の間の競争、対立が特徴である今の世界で、民主国家日本にとって最も重要なのは、やはり米国、 EU、との友好、協調である。日米同盟が外交の基軸である。また日本人は「人間の安全保障」が好きだが、この概念を法律的に見れば、「人権の保護尊重」ということになろう。民主主義も人権の保護も、帰するところ個人の尊重という同一の考え方から来る。民主国家日本の外交においては、人権の尊重を具体的ガイドラインにすべきだろう、というのが私の考えである。
 このように、この年齢で晴読雨讀本を読んでいると,段々目が霞んでくる。春には白内障の手術、ということになるだろうか。