目にも鮮やかな民族衣装、コロンド村の素朴な陶器、懐かしさを覚える木彫りのセーケイ門・・・。古い伝統を今に残すエルデーイ地方(トランシルバニア)に興味を持ったのはいつだったか、はっきりとは覚えていない。私は1980年代初め、まだ社会主義の時代にリスト音楽院への留学生としてブダペストに降り立った。バルトークやコダーイの曲名に現れる民謡の採集地として認識したのが最初だったろうか。ハンガリー人の友人が増えるにつれ、分断された旧ハンガリー領に住む同胞達の事について何人もが私的な集まりで密やかに話し合い、部屋をエルデーイの民芸品で飾り、外国人の私に熱く語る場面が幾度となくあった。今と違い、ハンガリーのメディアではテーマ自体がタブーだった。その内、親戚や友人を国境外に持つ人が多いと知り、彼らに誘われて私もその地へ出かけるようになった。民芸品だけでなく山に囲まれた自然の美しさ、伝統的な生活、アールヌーボー建築に彩られた都市、人懐っこい人々。私はあっという間にこの地の魅力にとりつかれ、エルデーイ詣でを始めた。ハンガリー人達がなぜそれほど熱く語るのか、だんだんわかってきたのである。
 一方この時のルーマニアはチャウシェスクの圧政下である。一部食料は配給制、ガソリンは慢性的な不足、停電も日常茶飯事だった。現地の人は外国旅行も出来ないし、おまけにハンガリー人というと当局から敵視される面もあり、ハンガリー語の印刷物を持ち込む事まで制限されていた。だから旅行といってもとんでもない不便やちょっと危ない事と隣り合わせの旅である。知人の家に泊まるにも面倒な届けが要ったので、夜になってから行くとか、まるでスパイ映画もどきである。
 間もなく、ゴルバチョフのペレストロイカで東欧の政治が動き出した。ハンガリーが体制転換していく中、初の官製でない大規模デモは、ちょうどエルデーイ地方の村に対する解体計画に抗議するものでいかにも象徴的だった。時代の流れで私の生活も巻き込まれるように変化し、帰国予定は延期してしまった。めったにない歴史的な変化が目の前で起こりつつあり、居合わせた幸運を感じ、変化の行き着く先を見届けたい気持ちになった。考えている暇もなく、次々と取材に来る日本からの報道関係者に案内役や通訳としてお供し、政治の現場に立っていた。
 テメシュヴァールのテーケーシュ・ラースロー牧師が発火点となったルーマニアの革命では、NHKの記者と共に現地に入り取材を手伝った。銃弾が飛び交い出したのでさすがにあわてて退散した。チャウシェスクが処刑され、これで圧政から人々が開放されるかと感無量だった。雑誌の連載で取材に来られた作家の杉山隆男さんを、テーケーシュ牧師とエルデーイの作家、故シュテー・アンドラーシュ氏のところへお連れし、長いインタビューをした。それは後に『きのうの祖国』という本になった。日本人にはわかりにくい、国境線の変更で「外国」に取り残された人々の様子が日本人の目線で描かれている。
 1990年代初め、一旦帰国し雑誌などでライターをしていたが、ある日ルーマニアの民族舞踊団来日というポスターが目に止まった。写真はエルデーイにあるハンガリー人村のひとつである。しかしハンガリー人を示す記述はなく、どう読んでも単にルーマニアの舞踊団という感じだ。主催者に問い合わせると、最初はトランシルバニア・マロシュ舞踊団と書き、チラシにもそれとなくハンガリーの国旗色を使ったが、ルーマニア大使館からクレームが付き、ルーマニアを明確に示すよう強要されたという。さもありなん、と思ったがせっかくハンガリー人が自分達の踊りを日本で披露するのにルーマニア人と思われたままでは気の毒なので、問題提起を試みた。週刊誌のアエラが取り上げるというから、ルーマニア大使館に取材した。大使までお出ましになったが納得行く説明はなく、ともかくハンガリーの踊りという事実は伏せておきたいようだった。アエラに記事を書き、ちょっと騒動になった。複雑な民族問題はこんなところまで影を落としている。それにしても外国旅行が命がけだった時代を思うと隔世の感じがあり、日本にまで伝統舞踊を紹介できるようになった感慨に浸った。以後もエルデーイからの舞踊団は来日公演を重ね、愛好者を増やしているようだ。 
 90年代の半ばに日本大使館の専門調査員として再びハンガリーへ来ることになった。エルデーイへの関心はずっと続き、テーマのひとつとして調査した。一度は堤大使ご夫妻を視察にご案内し、セーク村やエルデーイの東端ジメシュ地方までも出かけた。「タイムマシンで百年前の世界に行ってきましたよ」。旅行から帰って開口一番、大使は会議でそうおっしゃった。
 この後、作家のシュテーさんをハンガリー文学の重鎮として日本へ招いた。多彩なプログラムで秋の日本を堪能され、私は通訳として同行した。民族対立の暴動で片目を失明され、疲れやすかったシュテーさんは、食べ物が合わないかもと心配し、ルーマニアから缶詰を持参されて重い荷物があった。地方へ旅行する時に、私は自分の荷物を宅配便で行き先のホテルへ送り軽装で旅の用意をした。シュテーさんにもそれを奨めたが、荷物が翌日ホテルへ着くことをなかなか信じてもらえない。紛失したら困るから自分で持っていくとおっしゃる。当時の駅はまだエレベーターがどこでもある訳でなく、奥さんとお二人の重いスーツケースを一緒に抱えて階段をひきずり往生した。宿泊先のホテルで私を待っていた荷物を見て驚かれ、帰りは送る事になったので助かった。食事にもカルチャーギャップがあった。日本のもてなしは高級になるほどその場で調理するような機会が増える。しかしシュテーさんにとって生肉や生魚は厨房で処理するものという意識が強かったらしい。日本的なものをと考える招待側の意に反して寿司はおろか、鉄板焼きや目の前で揚がる天ぷらも提案だけに終わった。それでも旅館やデパートの食品売り場などはお気に召したようだった。
 現在、エトベシュ大学の日本学科で教員をしているが、新入生の中には大抵、国境外からのハンガリー人学生が混じっている。優秀な人が多いが、卒業すると故郷に帰る人の方が少数派で、本国への移住が増えるばかりの状況には複雑な思いだ。グローバリズムで伝統文化はこれからどうなっていくのだろう。