「あなたに少しマジメな相談があるの」晩酌中の至福のひとときのこと。突然姿勢を正してこう切り出す妻の真剣な表情にただならぬものを感じた私は、手にしたドレーヘルを落としそうになった。
 「ジョギングを始めようと思うのだけど、どうかしら?」
 かなりの拍子抜けをくらった私を尻目に妻は続けた。
 「占いによると、私走った方がいいらしいのよ」
 最近運気が落ち何かとノレない妻は、少しずつ生活にイライラを感じ始めていた。日本へ一時帰国した際、本屋で立ち読みした雑誌の占いコーナーにはこんなことが書いてあったらしい。
 「あなたは何事もうまくいかず、ストレスをためています。それを打開する為には自分の趣味に力を入れて下さい。新しいものでなくこれまでにやったことがあり、かつあまり力を入れなかったものがいいでしょう」。
 走ったり泳いだりすることが好きな私としては、妻のライン参加は大歓迎である。運動不足の妻には何かしら体を動かして欲しかったし、これまで週末に家族を置いて一人で走り行っていた私への批判も軽くなる。願ってもない申し出に二つ返事で応えた。
 それ以来「走ること」が何かと妻の話題に上るようになった。「市場で美味しそうな牛タンを見つけた」とか「グヤーシュは○○のレストランが一番」などの食べることの話が大半を占めていた妻から、「61番トラム終点近くの坂って案外急なのねぇ」とか、「ヴァロシュマイヨールまで走ったら、○○さんに見られて恥ずかしかった」という話
題が増えた。「家族で走る?」と、ほとんど拒否する選択肢がないオファーを受けた2人の子供も合流した。マルギット島を周回するジョギングは立派な家族イベントとなり、ウィーンやバラトンへ遊びに行く際も、プラッター通りや湖岸をジョギングするのが恒例プログラムになった。

 赴任の暮らしぶりが変わったのがこの頃から。家族が寛容になり「水を得た魚」となった私自身この趣味に拍車がかかった。これまで見えなかったハンガリーを感じるようになった。郊外の町では大抵、車の往来が少なくてもったいない位のきれいな道が広がっていること。すれ違うランナーに会釈をすると、ヨーロッパのどの国よりも高い確率で挨拶が返ってくること。
 トレーニングでしばらく並走させてもらったランナーに「ありがとう」と別れ際に声をかけると、向こうは立ち止まって「おたがいよい走りを!」とわざわざ握手を求めてきた。国外の街をあちこちジョギングしてまわったが、こんなにフレンドリーなランナーはハンガリー以外にはいない。とにかく話好き。アジア人が珍しいのか、走っているとランナーが寄ってきては、「どこから来たのか」、「東京はどんなところか」などと質問を浴びせる。マルギット島では同じルートを回る為、ゆっくり歩いている人を何度も追い越す。ウォーキングをする熟年のご婦人2人、私が3〜4回追い越しても、わき目も振らずに話に熱中している。歩くより、話すことが目的なのか、と可笑しくなる。
 
 転機となった2008年秋以降、いろいろな大会に出た。日本で始めていたトライアスロンレースに出た際、私のハンガリーでの相対順位は日本の時よりはるかに下だった。持久走で「タイムと体重は反比例する」という定説を覆したのもハンガリー人たち。体重を絞って臨んだある大会で、私の周りには、ラードたっぷりの煮込料理を毎日食べているであろうかと思われる体格の人がウジャウジャ。トレーニングはしているのだろうが、あの大きな体をあのペースで動かし続ける心臓エンジンのパワーは凄い。すぐに病欠で会社を休むハンガリー人のことを「軟弱な」と思っていた。でも本当は違う。実は体は強いのだ。「やっぱり会社を休みたいだけじゃない」と言いたくなる。
 オルフという小さい町で行われたレースではWEBページに珍しく英語で大会概要が書かれていた。前泊のホテルを取り、準備万端整えていたが、何となくスケジュールの辻褄が合わない。開催直前になり確認すると、英語とハンガリー語のページで開催日が違うのだ。「1番大切な情報だろう」と抗議しても、「ああ、それ間違い」と悪びれる風でもない。日本だと大騒ぎになる話だ。よく言えばのどか。小さいことに目くじらをたてず「しゃぁないか」と寛大な心を持てる様になったのも、間違いなくハンガリー生活のお陰(?)だ。
 今年5月のドナウ河畔レースでは、「家族全員が同じ大会の同じレースに出る」という夢を実現できた。4人がそれぞれの真剣モードで5kmを走った。7歳の次男も併走なしで完走。ゴールに駆け寄ると、次男と同走したおじさんおばさんがやさしい目をして口々に「スーパー!スーパー!」と小さな次男を褒め称えてくれた。子供を見るとトロけそうな目で心から「かわいい」という表情をする。これもハンガリー人の特徴だ。「子供を愛する」気持ちは世界一じゃないか、と思う。このドナウ河畔レースが最後の大会になった。日本への帰任が決まったからだ。製造業に勤める私は2006年から4年、新工場立ち上げという使命を終え、9月に日本に戻った。
 駐在開始当初は分からないことだらけだった。ひとりで仮事務所や椅子・机を探すところから始まった。会社の至るところで立ち食いするハンガリー人。時間に遅れても「それが何か問題?」という人たちとうまくやっていく自信はなかった。だが、日本人とハンガリー人の距離を縮めるところから始まったミッションも、生産が始まるころには峠を過ぎた気分だった。生活空間が広がってきたのもこの頃から。リーマンショックを潜り抜け、ここに来てようやく予定のフル生産が見えてきた。ハンガリー人は良くも悪くも人間っぽいと思う。この国とここに住む人たちをいろんな角度からたっぷり眺めることができた。
 
 「占い」のことはあの時以来話題にすら上がらない。妻もすっかり忘れている。でもあのきっかけは大きかった。帰任を前にした妻は「もっとあちこち走りたかった、あの大会にももう1回でたかった」と叶わぬ夢を毎日口にしている。最初の海外赴任地は思い入れが深くなるそうだ。わが家族を支えてくれたハンガリー人とここに住む日本人の方々に感謝の気持ちを抱きつつ、駐在を終えた。

(えぶち・やすひさ ブリヂストン)