私はハンガリー人生を日本語教師として始めたのだが、「小林研一郎」は、どの生徒も知っている人名であった。でも、実はもしかしてこれは全国民が知っているのではないかと感づき始めたのはそれからすぐのこと。ハンガリー人と知り合って、日本に関係する単語・知識を披露して下さる中に、必ずと言っていいほど「スシ」「ゲイシャ」と並んで「コバヤシ・ケニチロ」が入ってくるのである。どんな方なのであろうかと調べてみると、ちょうど私の生まれた年にプダペスト国際指揮者コンクール優勝とあった。主人に聞くと、小学生だった頃にテレビで見て、顔に感情の全てが現れ、全神経を投じて指揮を振っていた姿を覚えている、と言う。まだ一つしかチャンネルがない時代で、まさに国中のハンガリー人が注目していた放送だったそうだ。
 言わずもがな音楽の染み込んでいる国ハンガリーでのことだから、この人気は一時的なものではなく、40年経った昨今までも健在だった。チケット手配は、いざとなったら知人のジュール・オーケストラ関係者にお願いできるから大丈夫だろうとタカをくくっていたが、秋の初旬に問い合わせした時点では既に手遅れで、半年以上先の3月末のチケットが完売という状態だった。このコンサートには私たち夫婦だけでなく、日頃お世話になっているジュール在住の主人の親戚が切望していただけに、すぐに断念するわけにいかず、それからも方 々を当たってみた。親戚は親戚で、勤め先の病院の関係者から個人歯科医院に通う患者さんまで、全ての伝手を頼って探してみたようだが、皆から、「入手は不可能だろう」と言われたそうだ。なぜなら、このコンサートは劇場のセット券のトッププログラムだったようで、セット券には販売の「おとり」にできる人気の高いプログラムが必ず入る。オーケストラもこうやって、チケットを販売しているということだ。ありとあらゆる方法で頑張ったが、年を越してもチケットを手に入れることができなかった。それでも諦め切れず、いよいよ最後の手段で、編集長の盛田さんに泣きつき、神頼みで授かったチケットだった。
 コンサート当日は山本大使もご列席された。感動としか他に言いようのないコンサートを鑑賞することができたのだが、ベートーベンにサンドイッチされたコダーイの「ガランタ舞曲」は、私にはとても不思議に印象の残る曲で、帰路ヴェスプレームまでのドライブ中もこの曲のメロディーが頭から離れなかった。聞いたことのない曲であったと言ってしまえばそれまでだが、ベートーベン2曲も耳にしたことあるかどうか定かでないのにここまで強いひっかかりはなかったので、自分にとって何か特別だったのだろうと思った。帰宅後すぐ、コンサートを聴かせて頂いたばかりなのに失礼とは思いながらも、早速インターネットでこの曲を探して聴いてみた。こどもの頃から父に、絵画展から帰ってすぐには印刷の絵を見ない方がいい、本物の色を忘れてしまうから、と言われていたことを思い出しながら、少し罪悪感を持って実行したのだが、これは音楽には当てはまらなかった。本物を聴かせてもらえたおかげで、スマートTVからの音響が、この日のコンサートの再現のような深い音に聞こえてきた。映画を見た後で原作本を読むような感じに似ていた。娘が民族ダンスを習っているので普段もハンガリーの民族音楽をよく聞いているからか、この曲にはすっかりはまってしまい、半月たった今日でも時々余韻に浸っている。
 最初から最後まで譜面なし、一流のジュール・フィルハーモニー管弦楽団を熱く指揮され、お疲れの様子など微塵も見せず、挨拶もユーモアたっぷりに締められた小林先生の音楽が素晴らしかったのはもちろんのことだが、私は別の意味でも感慨深かった。ハンガリーに住んでこのかた、ここのチームプレーに何度か立ち会ったが、個々人の実力があっても集団行動には難があるハンガリーの方たちを、あのようにまとめられる人物にはこれまでお目にかかったことがないように思える。
 ジュール・コンサートから2週間後、おもしろい縁で、もう一つおまけの余韻を楽しむこととなった。なんとショプロンのコンサートまで駆け付けた「おっかけ御三方」とご一緒する機会に恵まれたのだ。小林先生のことで話が盛り上がったのは言うまでもない。
 来年はヴェスプレームでも小林コンサートが開催されるとのことだから、もう今から楽しみにしている。小林先生の力の源だと伺った新鮮な生たまごを準備してお待ちしたいと思っている。

(もりた・ともこ ヴェスプレーム在住)